DRIVEインターン大学1・2年生からはじめる本気のインターンシップ

すでにある雇用の椅子を奪い合うのではなく、自ら椅子を『創る』

川村泰裕さん

インターン先:NPO法人ETIC.

【プロフィール】
川村泰裕/都内の人材育成を行う企業にて、ベトナム事業を担当/EIP11期生 1984年愛知県生まれ。早稲田大学教育学部卒。大学在学中に社会起業家のためのビジネスプランコンテスト「スタイル2007」や新しい就職活動のあり方を考える「アントレ就職塾」の企画立案に携わる。2008年、都内の産業機器メーカーに営業職として勤務する。 しかし、入社直後に業績が悪化し、2009年12月に退社を余儀なくされる。その後、「仕事をつくる」をテーマに、ご縁のあったベトナムに単身渡る。約2年間で様々なご縁に恵まれ、日本人向けベトナムツアーを含む複数の仕事を創ることが出来た。現在は「仕事をつくる人をつくる」をテーマに、日系の人材育成企業にてベトナム事業の推進担当として活動をしている。
就職活動への違和感

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学生時代ETIC.でのインターンをされていたとのことですが、ETIC.に関わったきっかけはなんだったのですか?

ETIC.が主催していた社会起業家向けビジネスプランコンペSTYLE2007 (※1)が開催される際、大学サークルの同期で、そのSTYLEの運営をやっていた友廣 裕一君 (以下、友廣君 ※2)に「面白い事やっている人達が居るから、よかったから運営スタッフを手伝わないか」と誘われて参加したのがきっかけです。現在、中退予防や大学改革の事業に取り組んでいるNPO法人NEWVERYの理事長山本繁さんがその前身であるNPOコトバノアトリエとして応募していた時です。このSTYLEの運営に2か月程関わりました。 運営スタッフとして働く中で、就職活動も迫っていました。2008年は好景気で、結果的に私は内定を5社程頂きましたが、同時に何か既存の就活のあり方に疑問を持っていました。そういった想いをETIC.の細田さんに相談した所、「今、川村君のように就職活動に違和感を持つ、社会に対する想いのある学生が沢山居る。どうやってその想いを仕事に繋げていくか、というプロジェクトをETIC.で企画しているので、一緒にやらないか?」と言われました。ETIC.が主催したアントレ就職塾(※3) の事ですね。既存の就活を批判するのは誰にでも出来るけど、せっかくだから批判するだけでなく何かやろうよ、と言われ、インターンが始まりました。

その当時感じていた、就職活動に対する違和感とはどのようなものだったのですか?

私は、早稲田祭の実行委員会に所属していたのですが、早稲田祭を通して本気で社会を変えようと思っていた先輩たちが、就職活動ではその取り組みを、単に就活を勝ち抜くためのエピソードとして話していました。一方で、全く固定概念に囚われず、想いを持ってそれを貫こうと生きていた友人もいて、そのギャップに違和感を持っていました。

大学卒業後、どんな会社に就職したのですか?

簡単に言うと、産業用の機械を作っている会社です。 アントレ就職塾の企画をしている期間と、自分自身の就職活動の期間が重なっていたので、就活塾の中で取り組んだ「自分事業計画書ワーク」を、まず私の父親が経営する中小ガラス会社に当てはめてトライしました。父の会社の事業状況を調べたり、自分と同じような、家業を継ぐ前の2代目3代目にインタビューしたりする中で、「日本の中小企業は海外に出ていかないと駄目だ」と思い、「海外に目を向けていて、かつ従業員数の少ない会社」を自分の就職活動の軸に置きました。その軸に沿って就職活動を行った結果、業界の世界シェア2位で、売り上げの7割が海外というその会社に入社を決めました。しかし、入社後すぐの2008年秋口にリーマンショックが起き、会社の業績も悪くなり、1年半で私がいた営業部のメンバー共々リストラされてしまいました。

片道切符でベトナムへ

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就職活動の時に考えていた事と、リストラ直後の考えは変わっていますか?

根本的には「自分が自分の人生を生きるというのはどういう事なのか」という事をずっと考えています。それを実践している人は本当に少ないし、新卒でいきなりそういう生き方ができている人もいません。ただ、リストラ後は、「日本の中小企業を何とかしたい」という考えから、「まず自分をなんとかせにゃならん」という考えに変わりました。 私がリストラされた頃、友人の友廣君は、既存の就職活動をせずに、世界を旅した後、地域の漁業再生プロジェクトに関わっていく事を決めていました。私は、この事がとても衝撃的でした。友廣君は粛々と自分の進むべき道を自分の力で切り拓いていた。対して、私は、好景気という波に乗って一サラリーマンとしてただ働いていた。昔は企業が社員を育ててくれていましたが、今は事業が歳を取りすぎていて、そんな余裕が無い。だから自分で自分を育てるしかないんだという事に気づきました。まさにETIC.の考えである「自分経営」です。それに気づいたので、リストラ後は、転職活動はしないことに決めました。色んな人に「なぜ転職活動しないの?」と、聞かれましたが、どこかで、ETIC.でのインターンの経験が自信になっていたんでしょうね。自分が主催したイベントに人が来てくれた経験や、友廣君の姿も見ていたし、「自分で仕事を創る」という事をやってみよう、これを自分のテーマにしよう、と決めました。 リクナビにある椅子を奪い合うんじゃなくて、自ら椅子を創ることをしたかったんです。 ただ当時は、「仕事を創る」をテーマに行動こそしていたものの、先のことは何も考えていませんでした。

そういう風に、「仕事を創る」をテーマに行動されている中で、ベトナムで働かないかと声をかけられたんですね。

そうですね。ちょうど同じタイミングでベトナムに会社を作った方と出逢ったんです。その方とは昔一回だけあったことがあったので、私のリストラ後、一回会う事になり、その場で「ベトナムに行って仕事創ったらいいじゃない。」と提案されました。聞いたときは、「出来る訳無いだろ!」と思いましたよ(笑)それで一度は断ったんです。ただ時間が経つにつれ、やっぱり面白いんじゃないかと思うようになって、とりあえず一度ベトナムに視察として行く事にしました。 その視察で、日本語を勉強しているベトナム人がいる事、物価が安い事、ベトナム人のパートナーがいれば10万円で会社が作れる事を知りました。そして、直感的にベトナムっていいなと思ったんです。それが2009年12月の事です。 「ただでさえ仕事が出来なくてリストラされた自分が、海外に行って仕事を創るというのは面白いし、それを発信すれば何かしら誰かの為になるだろう。」と、視察から4か月後の2010年4月にベトナムに入り、私はベトナム第2の都市ダナンから100キロ離れたフエという都市に行くことになりました。ちょうどそのとき、私をベトナムに誘ってくれた知人が、日本語学習者が多いフエ地区から、「2ヵ月だけ日本語をボランティアで教えてほしい。」というお願いを受けていましたのでそこに私が派遣されたんです。

不安感はなかったですか?

もちろん、不安しかありませんでした。でもやはり自分がベトナムに行くことは周りから見れば絶対面白いと思いました。後でネタになるように片道チケットだけを買ってベトナムへ行きました。かっこいいかなと思って(笑)。 2か月の日本語教師のボランティアが終わった後、フエ外国語学校の日本語学科の先生に「日本人の先生がほとんど居ないから、よかったら学校で正式に教師として日本語を教えてくれないか。」と誘われました。ビザも、宿舎も、給料も月8千円だけど用意する。と言われて、これは渡りに船と日本語教師の仕事を始めました。

片道切符でベトナム入りし、教師の仕事を本格的に始められたということは、帰国するつもりは無かったのですか。

無かったです。ベトナムで何かをしないと帰れないと思っていました。 でも実際にベトナムに行ったら本当に何にも出来ないんです。言葉もわからないし、寒暖の差が激しい気候にもなかなか慣れませんでした。そんな状況の中でも、見ず知らずの若造の私に学校の先生になってほしいと言ってくれて、宿舎も用意してくれた先生方や生徒の優しさは、本当に嬉しかったんです。 日本語教師としての仕事は始めのうちは、「こんな沈みゆく国の言葉を覚えても仕方ないだろう。」なんて思っていました。でも、教師の仕事をする中で、日本という国を客観的に見ることが出来るようになりました。一言でいうと、日本には良い所が沢山あるということです。例えば、ベトナムではバイクの事を『ホンダ』と言います。ヤマハのバイクは『ヤマハのホンダ』。それほど昔からベトナムに日本企業が進出しているから、日本語を勉強したいという人が沢山いてくれるんです。更に多くのベトナムの人たちは日本に行きたいと考えていてくれまする。そういった先人たちのお陰で私は日本語教師という仕事ができる。自分には本当に何もないと思っていたけれど、日本人というだけですでに持っているものがあると気付いたんです。我々日本人が持っているものって本当に大きいですし、世界的に見てもアドバンテージがあると思うんですよ。

日本語教師の仕事はどのくらいの期間、されていたのですか?

2010年の9月から2012年の1月まで日本語教師をしていました。空いている時間は、私のこの活動を発信するべく、ツイッターやブログを更新し続けていました。そこからも自然といろんな縁が生まれて、友達だけでなく、旅行代理店の方とか、就職に失敗した学生が私に相談しようとベトナムに来たりしてくれました。最終的に100人位の方と会いましたね。様々な人達と接する中で、ベトナム人が思う日本像と、日本人が思う日本像に隔たりがあるという事を感じました。中でも日本に対して非常にネガティブな印象を持っていた方が多かったので日本を客観的に見ることができて、良い所を見つけることが出来る日本人学生向けのベトナムツアーを作ろうと決めました。

金無し・コネ無し・経験無しでも生み出せるものがある

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チェンジメーカー留学の事ですね。詳しくお聞かせください。

チェンジメーカー留学は、今年の夏(2012年)もやる予定で合計4回目になります。このチェンジメーカー留学は「現地で仕事を創る」をテーマにしています。「仕事を創ると」いうのは、要は消費者から生産者に回ることだと私は思っています。生産者の視点からベトナムで仕事をするには、日本人としての強みを生かしてベトナム人と協力しないといけません。その結果、日本とベトナム両側の視点を持つようになり、結果的に参加者が日本を客観的に見ることが出来るようになります。そして、現地でのガイドは私の生徒である日本語を勉強している現地学生にやってもらうことで、一週間ベトナムの人とも触れ合えて、日本語も通じるので参加しやすい・・・こういったツアーの構想もネットで発信していたら旅行代理店の人と協力することが出来、最初のツアーが2011年の3月に実現しました。これが、自分が初めてベトナムで創った大きな仕事です。

具体的には、どのような事をされたんですか?

前回のチェンジメーカー留学では、ツアー参加者がゲリラ的にお好み焼きを作って販売しました。ベトナムのバインセヨという食べ物が、日本のお好み焼きに似ているのでベトナムの人にも受け入れられるだろうと考えたのです。全部で120個売れて10,000円くらいのお金になりました。この売り上げはお世話になっている孤児院支援を行っていた方への寄付させて頂きました。「日本」を生かしてお金を生み出した事(生産者側にまわった事)から参加学生も色々と学んでくれたようです。

ベトナムで0から1を創るという体験をさせるという事ですね

そうです。私のやってきた経験を1週間に凝縮したようなものです。金無しコネ無し経験なしでも0から1を生み出せるという事を、このチェンジメーカー留学を通じて学生に身を持って体験してほしいです。

消費者側から生産者側になってほしいと思う理由はなんですか。

「仕事はつくるものだ」ということを実感して欲しいからです。もう少し噛み砕くと、自分で決めて、人の役に立てる人を増やしたいんですよね。大学まで行かせてもらった私のような人は子どもの頃は、お父さんお母さんに決めてもらって、学校では先生に決めてもらって、会社では上司が決めてくれる。心から自分で決めたことは何一つないと思うんです。私の場合はベトナム行きという人生で初めての「自己決定」をした結果、目の前の視界がバーッと拡がって、自分が役に立てることが次々と見つかったんです。その結果仕事もつくることが出来た。人は自分で決めたことには責任が持てます。そして決めたことに従って行動したら、それが人にも喜んでもらえる。これ程、充実感があることってないと思います。こうした人たちを増やしていきたいんです。

チェンジメーカー留学の運営と日本語教師の仕事を並行されていたんですか?

そうですね。日本語教師の給料だけでは、日々の食事分しか賄えないので、チェンジメーカー留学以外にも声をかけて頂いた仕事は全てやりました。ベトナムに関する記事も書きましたし、日本語ガイド養成講座とか現地の学生に日本企業の状況を教える就職講座とかもやっていました。

一番大変だったのは何の仕事ですか

仕事の内容そのものよりも、人付き合いが大変でした。意外に思われるかもしれませんが、特に日本人を相手に仕事を進めることが大変でした。現地法人の日本人社員と最終的に交渉をまとめる事が求められるので、当たり前のビジネスマナーや、社会人としての振る舞いがちゃんと身についていて、更にコミュニケーションをしっかり取れないといけません。大変でしたが、私はインターンも合わせて2年半くらい日本社会で働いていましたので、その経験が本当に役に立ちました。

自分で決める力

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川村さんはベトナムで働くことのどんな所に魅力を感じていますか?

日本人に生まれた自分を見つめ直せる所以外で言うと日本人である自分の仕事について危機感を持つことが出来ます。例えば、ベトナムではIT分野のオフショア(※4)という外資系大企業の下請け業務が流行っています。私の教え子の多くはこの分野で働いています。オフショアを手掛ける企業は、最近とても儲かっています。あるベトナム系のオフショア企業で働くベトナム人の友人からは「日本が不景気になればなるほどうちが儲かっちゃうんだよね。日本の皆さんありがとう。」と言われたこともあります。その時は腹立たしかったですが、彼の言うことは事実なんですよね。 なぜ、ベトナム系オフショア企業が日本企業を顧客に選ぶかというと、漢字圏のオフショアには「競合」が少ないからなんです。反対に英語圏の外資企業のオフショアには、「競合」が沢山居ます。もし英語圏のオフショアを選んでしまうとフィリピン人もマレーシア人も英語を学んでいるので、皆、競合になってしまいます。ただ、日本企業を選んだ場合、競合は漢字圏の中国人しかいません。だから彼らは日本を選んだと言います。つまり、自分が生きる為にどうすればいいかという事を考え抜いている。その底力が凄いんです。私は、就職活動の時「大企業の内定を貰いつつあえてベンチャーに行けばかっこいいよな」という事を思っていましたが、そんなアホな思考ではないんです。国を超えて仕事を考えている。思考が違うんですよ。 私のベトナム行きは10人中10人が反対しました。父親なんかはいきなり殴りかかってきました。お互いあざだらけになるまで喧嘩しました。それでも行ったことは後悔していません。ベトナムの現地に住んでいるからこそ、そうした彼らの底力を肌で感じる事ができ、本人として危機感を持つことが出来ます。ベトナム人の一生懸命さを日本は見習うべきなんです。

そこまで人に反対されても行った理由はなんだったのでしょう。

そこは意地と面白そうだなという気持ちですね。 私は、ETIC.の人や、出会った経営者の人が見ている世界に常々憧れていました。彼らの共通項は、「自分で決めている」という事です。インターンの経験から、自分発で何かできるんじゃないかという根拠なき自信や、自分一人で仕事が作れるものだという事を体験として理解できていたので、食いっぱぐれるという意識はなく、絶対何とかなるだろうと思っていました。だからこそ、ベトナムに行けたんだと思います。

順調に大企業に勤め、良いお給料をもらっている人達と、ご自身の状況を比べたりすることは無かったですか?

ベトナム行きは自分で選んだことなので、納得感があって、人と比べた給料とかは意外と気にならなかったですね。 最初のうちは給料月8千円ってやばいなと思ったりもしましたが、こちらの世界を選んだことによる縁もできたし、ベトナムで身についたことがあれば、日本でいくらでも仕事があります。本当に行ってよかったです。もっと若いとき行けばよかったと思う位。そうしたら英語の必然性をもっと感じられて、勉強しただろうな。と(笑)

川村さん個人としては、今後どのような事に取り組みたいですか?

自分自身も仕事を創る担い手であり続けると同時に、「仕事を創る人をつくる」ことがしたいですね。自分の中の問題意識を形にして、仕事にしていく人たちが増えれば、世の中もっと面白くなると思っています。私のような経歴を持っているからこそできることがあると思うので、そういうことを伝えて行きたいですね。

(2012年8月取材)

※1 STYLE2007

2002年~2007年まで開催された、NPO法人ETIC.主催の、日本で初めての社会起業向けビジネスプランコンテスト。NPO法人かものはしプロジェクトの村田早耶香ら、多くの社会起業家を輩出した。

※2 友廣 裕一氏

川村さんの友人。1984年大阪生まれ。2008年早稲田大学商学部卒業。ミクロネシア連邦ヤップ島や新潟の中山間集落に滞在したことがきっかけで、09年2月より180日間、日本中の農山漁村を訪ねるプロジェクトを実施。旅中はお手伝いをする代わりに家に泊めていただくというスタイルを取り、北海道から沖縄まで全国70町村・農林畜産漁業などの一次産業に加え、老舗ものづくり企業や鷹匠・猿回しまで300人以上と出会いながら地域活性化の本質を学んだ。旅を終えたあとは全国各地で村おこし・まちづくりの事業に関わる。その後、東日本大震災の被災地で課題や困りごとを発見して専門性を持つNPO等への支援につなげることを目的とする合同プロジェクト「つなプロ」のエリアマネージャーとして避難所のアセスメントおよび支援を行った。現在は漁村での住民主導の手仕事創出・コミュニティ再生支援に特化した団体として一般社団法人つむぎやを設立し、精力的に活動している。

※3 アントレ就職塾

2007年ETIC.が企画した塾。既存の就職活動をただ行うのではなく「自らの内なる思い」を深め、その後に、自分のテーマに沿った情報を自ら取りに行く「アクション」を通じて、最適な就職先を自ら決めることを目指し、活動した。

※4 オフショア

企業が自社の業務プロセスの一部、または全部を海外に移管・委託すること

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