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年齢バイアスを捨て、何でも受け入れ学ぶこと―開発援助で世界を飛び回る51歳が福島の浪江町へ転職・移住した理由

2024.03.07 

 

かつて日本の「良さ」と言われた終身雇用も今は昔。キャリアアップのための転職はいまや当たり前の選択肢になった。とはいえ、歳を重ねて背負うものが大きくなるにつれ、次の一歩を踏み出すのに必要なエネルギーは増していく。知命の歳を過ぎて新天地に飛び込んだ人は、何を思い、何に背中を押され、その後どんな道を歩んでいるのか。10年前、51歳で広島から福島へ転職・移住した岩尾恒雄(いわお・つねお)さんに話を聞いた。

「一歩ずつ、一歩ずつ」

 

福島県浪江町(なみえまち)の請戸(うけど)漁港。今年も正月2日の朝、大漁旗を掲げた漁船の群れが太陽に向かって出航した。海上の安全と豊漁を祈願する「出初式」だ。

 

2011年の東日本大震災と原発事故で壊滅的な被害を受けたこの港に、船が戻ってきたのは2017年のこと。出初式が復活したのはその翌年である。浪江町役場農林水産課の岩尾恒雄さんは、以来、この正月の光景を特別な感慨をもって眺めてきた。

 

復活した年の出初式。(写真提供=岩尾さん)

 

岩尾さんは2014年4月、町の一次産業再生を支援するため浪江町役場に入職した。当時の町は、まだ全域が避難区域。農地は荒れ、漁港の復旧はおろか沿岸部ではガレキ撤去も完了しておらず、津波に流された漁船や自動車があらぬ場所に散在している状態だった。

 

それから10年。生産者、役場はじめ関係者の懸命の努力で、浪江の農水産業は復活に向けて歩んできた。以下、岩尾さんのSNS投稿の短い言葉をたどるだけでも、この間の道のりの長さと険しさが垣間見えるのではなかろうか。

 

「浪江の春です!一歩ずつ、一歩ずつ・・・・・」(2016年4月、除染後の保全農地に咲く菜の花やレンゲの写真とともに)

 

「お帰りなさい!!!浪江町 請戸漁港」(2017年2月、6年ぶりに港に戻った船を出迎えて)

 

「漁業者、その家族の皆さん、本当にいい顔をしてました。もう一踏ん張り!!!」(2019年1月、出初式にて)

 

「荷捌き施設や貯氷冷凍庫施設の囲いが無くなりました。全体が見えます!完成に向け、工事が進行中です!」(2019年7月)

 

「新しい上架施設 船揚げ、第一号です。また、一歩前進しました」(2019年12月) 「請戸荷捌き施設 セリ再開!」(2020年4月)

 

2022年3月に公開された請戸漁港PR動画の第1弾

 

もっとも、町の産業再生は現時点でもまだ発展途上だ。6年に及んだ全町避難の爪痕はそう簡単に修復できるものではない。岩尾さんは今年62歳。「あと3年は働ける。まだここでやりたいことがある」というが、そもそもどんな経歴の持ち主なのか。何を思って福島へやってきたのだろうか。

技術協力で世界を飛び回る日々

 

岩尾さんは愛知県半田市の出身。静岡の大学を卒業し、20代のうちから開発援助や技術協力で世界を飛び回ってきた。浪江以前の経歴を詳しく書こうと思えば、それだけで本が1冊できそうなくらいだ。

 

「大学の頃からJICAの青年海外協力隊に憧れていました。水産学科を卒業し、食品会社の研究職に就いたものの、どうしても海外に行きたくて。協力隊で必要とされる専門技術を身に着けるため2年間、宮城県唐桑町(現在は気仙沼市)のとある施設でカキ養殖の研修を受けたのです。それが東北との最初のご縁でした」

 

その後、晴れて協力隊員となった岩尾さんは3年間を中米コスタリカで過ごす。帰国後は水産商社に入社、宮城県雄勝町(現在は石巻市)でカキなどの種苗生産・養殖に関する新規事業に携わり、地元の水産業の実態にも触れたという。

 

「でも、事情によりその事業が縮小されることになって、私の中で再び海外へ行きたい、という思いが強くなりました。それで、今度はJICAの専門家として中東オマーンに派遣され、アワビ養殖の技術協力をすることになったのです。その派遣前研修を受けたのが、当時福島県大熊町にあった県の栽培漁業センターでした」

 

福島第一原発が立地する大熊町は、浪江町の2つ隣りの自治体だ。そのセンターでアワビ種苗生産の責任者を務めていたのが、たまたま岩尾さんの大学の先輩だった。学生時代に直接面識はなかったが、後輩とわかるといろいろ親身に面倒を見てくれたのだという。このことが後の岩尾さんの選択に間接的に影響することになるのだが、当時はもちろん、そんなことは想像もしていなかった。

 

現在の浪江町・請戸海岸。半島のように見える部分に第一原発があり、その向こうが大熊町。

 

オマーンで3年、その後エルサルバドルで3年、貝類の種苗生産や養殖の技術移転に尽力した岩尾さんが、帰国後、次に向かったのは大学院だった。海外で技術支援する際は地元の漁村・農村の住民にどうアプローチするかが重要となる。「現地で活動するうち、住民参加型の開発のあり方について研究したいと考えるようになった」という。

 

そこで岩尾さんは広島大学大学院の生物圏科学研究科に入学。青年海外協力隊時代に知り合い、結婚していた妻とともに広島へ引っ越した。在籍中フィリピンで調査を行い、執筆した論文「住民参加型農漁村開発と外部者・開発関係者の役割―フィリピン・パナイ島での沿岸資源管理の事例からー」は現在でもインターネットで閲覧できる。

 

修了後は開発援助の現場に戻るべく、再びJICAの専門家としてミャンマーでのマングローブ保全プロジェクトに参画。日本と現地を行き来する日々だった。そんななか、東日本大震災が起きた。

 

ミャンマーでマングローブ保全に関わっていたときの岩尾さん(左下)(写真提供=岩尾さん)

いま支援が必要なのはどこか

 

「そのときはちょうど広島の自宅に戻っていました。テレビでは最初、宮城県沿岸の様子ばかり映していたのを覚えています。研修時代や赴任時代にお世話になった人たちが大丈夫か心配でたまりませんでした。5月頃には、数日間ですが気仙沼や石巻に赴き、被災家屋内の泥上げのボランティアなどもしました」

 

同時に岩尾さんは知人友人の消息を調べ続け、大熊町での研修でお世話になった先輩が帰らぬ人になっていたことを知る。

 

「施設責任者として先に職員を逃がし、自身は最後まで残っていたそうです。それで津波に飲まれたと聞きました。ショックでした。そんなことも含め、自分の目で被災地の現状を見て、私の考えが変わったのです。海外の途上国支援も大切だけれど、いまは優先順位が違うんじゃないかと」

 

岩尾さんは、まず某NPOで岩手県大槌町、宮城県気仙沼市・南三陸町における水産業の緊急支援業務に1年ほど携わり、次は別のNPOのプロジェクトで石巻市北上町における漁業六次化を支援した。その役目も1年で終わると、次なる復興支援の仕事を探し始める。キーワードは「福島」だった。理由は、「宮城沿岸に比べて圧倒的に手が付けられていないのは福島だったから」。もちろん、あの先輩の姿も脳裏にあった。そしてまもなく、東京のNPO法人ETIC.(エティック)が運営する「右腕プログラム」(東北被災地の各団体に右腕人材を派遣する事業)と出会い、浪江町役場の「営農再開支援プロジェクト」の人材募集を知った。

 

「募集を見てすぐにこれだと思いました。妻には反対されましたけど、じゃあ一人でも行こうと」

 

 

当初の仕事は、農地所有者による復興組合を立ち上げることだった。農地は放っておけばたちまち荒廃してしまう。浪江町では国による農地除染(表土剥ぎ)が行われることになっていたが、除染後の管理は所有者の責任だ。しかし、当時はまだ町内に人が住むことはできず、地権者は各地に避難している状態。みな営農再開への強い思いを持ちながら、まだ農業の未来は見えなかった。そんななかで、まずは関係者と協力して農地を保全・管理する組合の仕組みをつくり、実際に保全作業を実施していくプロジェクトだった。

 

この仕事に2年ほど携わった後は、本格化する請戸漁港の復旧と水産業の再生に向けた業務にシフト。その後の歩みの一端は、前述の岩尾さんの投稿でイメージしていただけるとおりだ。もちろん、施設などハード面の整備だけではなく、農水産業を担う人を呼び戻し、つなげていくことも大切な仕事だった。それには海外支援で現地コミュニティに入り込んでいく経験も役立ったという。

 

岩尾さんはSNSで「一歩」という言葉を繰り返し使っているが、それは産業再生だけに限らない。町全体の復興が、関係者全員の途方もない数の小さな一歩を積み重ねることでのみ、実現可能であったのだ。

最後に喜んでくれる人がいるなら

 

いまの請戸漁港には、「常磐もの」として高く評価されるヒラメ、カレイ、シラス、白魚などが水揚げされ、水産加工団地ではそれらの加工事業も再開している。それでも、まだ震災前の規模には戻っていない。100隻以上いた漁船は現在30隻。いまだ本格操業へ移行する前の「拡大操業」という位置づけで、漁に出られるのは月10日ほどしかない。さらに、請戸川で行われていたサケ捕獲やサケ稚魚放流のための採捕・ふ化施設の復活については、まだまだこれからだ。残り3年の任期で、岩尾さんはそれに取り組みたいという。

 

請戸川に戻ってきたサケ。2019年秋の撮影。この頃からめっきり数が減ったという。(写真提供=岩尾さん)

 

「生業の再生支援は生半可な覚悟では無理。ここで10年やってみてよくわかった。(それまでは数年単位でプロジェクトに関わってきたが)浪江では腰を据えて取り組むことができてよかったと思います」

 

もちろんその間には苦しいこと、もどかしいこと、腹の立つこと、様々あったに違いない。でも、自身が関わった仕組みや施設が完成したことで生業を再開できた人たちが、「戻ってきてよかった」と話す、その生き生きとした顔を見るのがモチベーションの源泉なのだと語る。

 

「正直、途中で投げ出したくなることもたくさんあります。役場の仕事ですから、たとえ私が放り出したとしても誰かがやるでしょう。でも、やはり私は自分でやり遂げたい、形にしたい、という気持ちが強いんだなと思います。最後に喜んでくれる人がいるならがんばれる」

年齢バイアスを捨てて

 

岩尾さんが浪江町役場に転職し、公務員になる道を選んだのは51歳のときだった。その時点で将来のキャリアプランをどう考えていたか、と尋ねると、岩尾さんは「その質問がいちばん困る」といって笑った。これまでずっと、「今の任期が終わったらまた考える」というのが基本スタンスのようだ。もっとも岩尾さんの場合、職場はいくつも変わったが農水産業・生業支援という軸はブレていない。

 

 

「現実的に、この年代で完全なキャリアチェンジは難しいのではないでしょうか。もちろんその人次第ですが、それまでにやってきたことや、いただいたご縁を十分に生かせる次のステージに進むのが理想だと思います。ただ、新しい環境においては、いくら求められる知識や経験があってもそれだけでは通用しません。謙虚さと同時に、何事に対してもオープンな姿勢が必要。予期せぬことは必ず起きます。自分はこの歳だからといったバイアスは捨て、何でも受入れ、学ぶことが大切と思います」

 

東北の被災地では、「苦難を乗り越えて帰還し、再開を果たした事業者」や「課題だらけの土地に移住して起業した若者」といった形で、多くのプレーヤーたちの姿が報道されてきた。無論、彼らはスポットライトに値する。一方、彼らが活躍するための舞台づくりに黙々と励む、岩尾さんたち行政職員の働きに光が当たることは少ない。「自分は黒子でいい。その方にやりがいを感じるタイプです」と岩尾さん。たしかに、そういうキャリアを選ぶ人たちもいるからこそ、この社会は回っている。

 

一方、若い人には文字通り「世界を見てほしい」とも。岩尾さんのキャリアを知れば、「世界は日本だけじゃない。ネットだけではわからない」という言葉は説得力を持つ。ただ、同じことは日本国内であっても言えるのではなかろうか。日本は東京(あるいはいま自分がいる場所)だけじゃない。現地に行かなければわからないことはたくさんある。それを知りたいという好奇心と、学ぼうとする謙虚ささえあれば、新しい挑戦に年齢は関係ない。

 

ちなみに、まもなく奥様が広島から福島へ引っ越してきて、岩尾さんの単身赴任生活はついに終わるそうだ。すでに新しい住まいも見つけたとのこと。岩尾さんの暮らしにもまた次の一歩が刻まれる。

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この記事を書いたユーザー
中川 雅美(良文工房)

中川 雅美(良文工房)

福島市を拠点とするフリーのライター/コピーライター/広報アドバイザー/翻訳者。神奈川県出身。外資系企業で20年以上、翻訳・編集・広報・コーポレートブランディングの仕事に携わった後、2014~2017年、復興庁派遣職員として福島県浪江町役場にて広報支援。2017年4月よりフリーランス。企業などのオウンドメディア向けテキストコミュニケーションを中心に、「伝わる文章づくり」を追求。 ▷サイト「良文工房」https://ryobunkobo.com

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