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マニュアルがある仕事はつまらないー福島に移住し、若手起業家の右腕になった58歳の8年の軌跡

2024.05.24 

地方へ移住して地域課題の解決に挑戦するというと、熱い志に溢れた20〜30代の起業家を想像する人が多いかもしれない。

 

でも現実の挑戦者たちはもっと多様だ。若さとアイデアで表に立つリーダーがいれば、人生経験を生かし、陰で支える裏方の道を選ぶ人もいる。後者の一人、8年前58歳で千葉から福島へ移住した西川典孝さんに話を聞いた。

 

若手起業家の右腕として南相馬へ

 

JR常磐線の小高駅から歩いてすぐの線路わきに、「青葉寿司」の大きな看板が載った一軒家がある。近づいてみると、のれんの代わりにaosubashi(アオスバシ)の文字が印刷された白いタペストリー。アオスバシは誤植ではない。ここは以前の寿司屋の店舗をまるごとリノベーションした、パン屋カフェとコワーキングスペースの複合施設なのだ。外観は昭和のままだが、できる限りDIYしたという内装は新しくてポップ。そのギャップが楽しい。

 

 

「この床は私が張りましたね。この鉄骨の塗装もやったな」

 

中を案内してくれた西川典孝さんは、指さしながら静かに話す。2021年末にこの店舗改装プロジェクトが始まってから2023年7月のグランドオープンまで、西川さんはほぼ毎日、この場所で手を動かしていたという。しかし、自身はこの施設のオーナーでもプロジェクト発案者でもない。アオスバシの運営を担うのは一般社団法人オムスビという団体であり、西川さんはその一スタッフだ。

 

 

アオスバシがある福島県南相馬市小高区は、2011年3月の原発事故のため5年4か月にわたって全域が強制避難の対象となった区域である。文字通りゼロからの再出発を余儀なくされ、課題山積と言われるこの地には、だからこそ挑戦を求めて飛び込んでくる若者も少なくない。オムスビ代表の森山貴士さんも、そんな若き移住起業者の一人だ。

2014年に単身この地にやってきて、IT系の経歴を生かしつつフリーペーパー発行、コーヒースタンド、カフェ、パソコン教室、プログラミング講座から直近のアオスバシまで様々な事業を立ち上げてきた。

 

その森山さんを8年来、陰で支えてきたのが西川さんである。森山さんの「右腕」となるため、当時住んでいた千葉県から南相馬市へ単身移住したのが2016年7月のこと。ちょうど小高区の避難指示が解除され、まちの復興も森山さんの小高での活動も、これから本格化というタイミングだった。

 

以来、現在に至るまでどんなことをしてこられたのかと聞くと、言葉少ない西川さんは少し間をおいて、「大工仕事」と言って笑った。もちろんそれだけのはずはない。そもそも西川さんは大工が専門でもない。32年間の会社員生活では、ずっと半導体の設計開発に関わってきたという。その西川さんがなぜいまここにいるのだろうか。

 

リノベ中のアオスバシ。左端が西川さん(写真提供=オムスビ)

脱サラ、親の介護を経て

 

きっかけは、東京のNPO法人ETIC.(エティック)が運営していた、その名も「右腕プログラム」(東北被災地で活動する団体のリーダーに右腕人材を派遣する事業)の人材募集だった。

 

「でも、別に被災地支援をしたくて仕事を探していたわけじゃありません。東京みたいな大都市じゃないところで生活したいと思って、離島とか北海道なんかも調べてました」

 

当時の西川さんは還暦まであと2年だったが、既にその3年ほど前、長いサラリーマン生活には終止符を打っていた。大学の電気工学部を卒業後、就職した大手半導体メーカーに約12年、その後10人規模の半導体ベンチャーに転職して約20年。その間、設計開発から技術営業、企画、マネジメントまで携わりつつ、バブル経済とその崩壊、国内外の業界再編など激動の時代を経験した。

2013年、勤務先のベンチャーは100人規模まで成長し、自身にも取締役の肩書がついていた。しかし、市場の変化を受けて自分が関わっていた事業の収束が見えてきた。組織に残る選択肢もあったが、「もういいかな」と思った。

 

「最初はフリーランスでやっていくつもりでした。当時3Dプリンターを使ってモノをつくる『一人メーカー』みたいなのが流行っていたので、なんとなくそんな方向でね」

 

アオスバシ2Fのコワーキングスペースにて

 

ところが、まもなく郷里の長崎県の両親に非常事態が訪れる。持病を患っていた母親が介護施設に入居した直後、父親も脳梗塞で入院することになったのだ。それまでも様子を見に頻繁に帰省はしていたが、しばらく長崎に留まらざるを得なくなり、仕事どころではなくなった。

 

「その後1年足らずで両親は相次いで亡くなりました。二人を見送ってから、あらためて自分はどうしようかと考えたとき、東京に戻ってまた毎日終電で帰宅するような生活だけはしたくなかった。広々した地方への移住を考え始めて、とある本を読んでいたらエティックというNPOの話が出てきて興味を持ちました」

 

団体名で検索して上述の「右腕プログラム」に行きつき、募集一覧を眺めていると、「逆境地域の未来を支える課題解決型ITエンジニアを育てる」というプロジェクト名に目が留まった。

 

「被災地復興のために人材を派遣、と聞いて、なるほどこういう可能性もあるかと思いました。でもやっぱり自分はモノをつくってきた人間だから、マーケティングとかまちづくりとかのキーワードはぜんぜんピンと来ない。リストの中に唯一『エンジニア』という言葉を見つけて、これなら少しは自分がやってきたことに近いかも?と、そんな動機でした」

 

そのITエンジニア育成プロジェクトのリーダーが、まだ法人設立前の森山さんだった。

裏方としてリーダーの試行錯誤にとことん寄り添う

 

「2016年夏に着任して最初にやったことは、森山さんのオフィス開設に向けた床張りの手伝いだったかな。それから、当時森山さんが間接的に受託した移住希望者向け『お試しハウス』の運営を担当することになりました」

 

同年12月、まだ人も店も少ない小高で森山さんら有志がOdaka Micro Stand Bar(OMSB=オムスビ)と名付けた移動式のコーヒースタンドを始めるにあたっては、西川さんはそのキッチンカーの改造を担当した。翌4月、一般社団法人の立上げ時には設立登記を手伝い、後のオムスビカフェの常設店舗化のときもリノベーション作業を担った。

 

オムスビカフェのリノベ中の西川さん(写真提供=オムスビ)

 

ほかには?と聞いても西川さんはあまり多くを語ってくれない。おそらく、具体的に挙げればキリがないからだろう。オムスビの過去のSNS投稿を見ると、森山さんが仕掛けてきた様々なイベントの集合写真の後ろのほうに、ひっそりと西川さんが写り込んでいるものがいくつもある。

今回の取材は「決算申告終了後なら」ということで4月末に協力いただいたが、つまり西川さんは経理事務も担当しているということだ。

 

当初のお題「ITエンジニアの育成」はどうしたのか、などという質問にはおそらくほとんど意味がない。とにかく西川さんはこの8年間、自分のできる分野で森山さんの試行錯誤にとことん寄り添ってきた、というのが正しいのだろう。

 

「最初から何をやるのかよくわかってなかったですしね(笑)。ここに来てから初めてのことばかりだったけど、自分はそもそもマニュアルがあるような仕事はつまらないと感じるタイプ。なんであれ、知恵を使って何もないところから解決策をひねり出すのがおもしろいんです。そして、最後は目に見える形になるところがいちばん楽しい」

先輩・後輩でも上司・部下でもない信頼関係

 

オムスビ代表の森山さんから見て、そんな西川さんはどんな存在なのか聞いてみた。

 

「まさに『右腕』。彼がいなければオムスビは回りません。主にハード面でのヘルプのほか、日常の細々とした事務系のことを僕が心配しなくてもいいような環境を作ってくれています。また僕自身、ここでいろいろ試行する中で気持ちの浮き沈みが大きい部分もあって、そこをうまく支えてくれているのもありがたい」

 

キッチンカー時代のマルシェイベント。前列中央が森山さん、最後列中央に西川さん(写真提供=オムスビ)

 

あながち親子でもおかしくない年の差(29歳差)に、森山さんは最初こそ多少戸惑ったものの、いまでは「先輩・後輩でもなく、上司・部下とも違うおもしろい関係」を築けているという。その関係が心地よいのは、二人とも「人は好きだけど人付き合いでベタベタしないタイプ」だから。ただし、余計な話はしなくとも信頼関係はしっかりできあがっている。

 

「西川さんは僕の基本的な考え方は認めてくれている一方、手段レベルで間違っていると思えばちゃんと指摘してくれる。その場合も、『それは違うよ』と口で言うだけでなく、『これはこうしたほうがいいと思うからやっておきますね』といってどんどん動いてくれるんです。ベンチャー気質というか、ごちゃごちゃ言ってる間にやったほうが早い、という人。そこはとても感謝しています」

 

一方、50代終盤で都会から移住してきた西川さんが地域に馴染むことができた理由については、どう見ているだろう。

 

「ひとつは偉そうにしないからだと思います。都市部から来た年配の男性、特にある程度の役職にいた人は、そのつもりはなくても自然に『自分はエライ』オーラを出してしまいがち。でも、西川さんは老若男女みんな同じように接し、なかでも女性に対して尊大な態度をとらない。だから地元のおかあさんたちにも人気なんです」

ゼロからつくる自由があるから、おもしろい

 

この取材では、西川さん自身のキャリア観を知りたいと、いろいろな質問をしてみた。学生のころの夢、会社員時代のプラン、脱サラしたときの計画、「右腕」に応募したときの思い。でも、どれに対しても「あんまり考えてなかったなあ」などと素気ない。

切り口を変えて移住を後悔したことはないかと聞いてみても、「そもそもそんなに期待してなかったから(笑)」と煙に巻かれた。同様に、将来のことについても口数は少ない。

 

アオスバシ前にて

 

オープン間もないパン屋カフェ&コワーキングスペースのアオスバシは当面オムスビの主力事業のはずだが、西川さんはその運営には直接関わっていないという。「ただ、これから外構を手入れしないといけないし、別の場所から移設しなきゃいけないものもあって・・・」と、大工仕事が当面続くらしいことはわかった。

 

アオスバシのある小高駅周辺の人通りは、けっして多いとは言えない。避難指示解除から8年たっても居住人口が震災前の3割にとどまる小高区の復興は、この先も正念場が続くだろう。同時に、法人としてのオムスビの経営もまだまだ試行錯誤が続くのだろう。それでも西川さんは、この地を諦めない森山さんをこれからも何らかの形で支え続け、小高の一住民として地域で活動を続けるのだろう。

 

そう思えるのは、西川さんが具体的な将来計画をひとつだけ教えてくれたからだ。

 

「小高に土地を買って、いま家を建ててまして。農地も付いてきたので、そこを使って何かやろうかと考えています。農業もある意味でモノづくりだし、耕作放棄地を減らすことにもつながるかと思って」

 

小高駅前にあるマップ

 

ちなみに西川さんは独身ではない。千葉の自宅には自営業を営む妻がいる。子どもは3人。でも西川さんはこれまで、転職でも退職でも移住でも、誰にも相談せず一人で決めたという。「自分で決めないと後で後悔するから」というのが理由だ。

 

そんな夫・父親をどう思っているのか、今回ご家族には取材していない。が、西川さんが単身移住した後もコロナ禍前までは年に一度、恒例の家族スキー旅行を欠かさなかったと聞けば、おそらくみな西川さんの静かな挑戦を理解し、あたたかく見守ってきたのではなかろうか。「ここに家を建てれば、独立した子どもたちも家族で遊びに来られる」という西川さんの言葉にも、小高への愛着とともに家族への愛情がうかがえる。

 

「少し前から馬の厩舎(きゅうしゃ)を掃除するアルバイトもしています。小高にある施設で乗馬を習い始めたら手伝ってほしいと言われて」。そう聞いて、そろそろ悠々自適ですかと水を向けると「引退のイメージはまったくない」と即答が返ってきた。

 

「5年後?そうだなあ、畑やってるかなあ。5年じゃまだまだ新しい環境の整備は終わってないかもしれないね。森山さんたち若い世代もみな同じ考えだと思うけど、小高の魅力はゼロからつくる自由があること。だれもやっていないことをやれる。そこがおもしろいんです」

 

そう、その心意気は若手起業家だけの専売特許ではない。同じ思いであくまで裏方に徹してきた西川さんの、六十路の旅はこれからだ。

 

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中川 雅美(良文工房)

福島市を拠点とするフリーのライター/コピーライター/広報アドバイザー/翻訳者。神奈川県出身。外資系企業で20年以上、翻訳・編集・広報・コーポレートブランディングの仕事に携わった後、2014~2017年、復興庁派遣職員として福島県浪江町役場にて広報支援。2017年4月よりフリーランス。企業などのオウンドメディア向けテキストコミュニケーションを中心に、「伝わる文章づくり」を追求。 ▷サイト「良文工房」https://ryobunkobo.com