『認定NPO法人グッド・エイジング・エールズ』代表の松中権さん。ご自身がゲイの当事者であることも活かしながら、「カラフルな(多様な)人たちがいるからこそ楽しい」と言える世の中を目指しています 。
2020年のオリンピック・パラリンピック開催を前に、松中さんが中心になりながら、東京にLGBTとアライの交流拠点『PRIDE HOUSE』をつくるプロジェクトが始まりました。2020という大きな機会を、社会を大きく変えるために使っていこうとするこの動きについて、お話しを伺いました。
自分たちで出し合えるものを出して、というやりかたに出会う
———松中さんは認定NPO法人グッド・エイジング・エールズというLGBT関連の団体をされていますが、設立するまでのお話を伺えますか。
松中権さん(以下敬称略):石川県の金沢で生まれました。大学に入ってオーストラリアのメルボルン大学に留学したんですが、日本とは違って、ゲイスタディが充実していたり、カミングアウトしてる先生がいたりして、「こういう世の中になればいいなあ」と思いましたね。はじめて自分がゲイだとカミングアウトしたのもその頃です。
就職する時期になって電通という会社が広告以外にも社会的に大切なことの発信やPRもしているんだと知りまして、自分の関心であるLGBTのことも発信できるかなと思って入社しました。
電通では自分がゲイであることは隠していましたが、上司だった人がいろいろな生き方にオープンな方で、その人には言ってもいいかなと思っていたんです。でもその人がサーフィンの事故で亡くなってしまった。「彼には言っておけばよかったな」と後悔しました。その出来事は今の活動の一つのきっかけになっていますね。
その後、2008年に会社の研修制度に応募してNYに行きました。現地のイベント会社にインターンで入りました。エコとかグリーン、ソーシャルといった話しがちょうど盛り上がっていた頃で、そういうことを学びたいとも思っていました。そのイベント会社には、ノンプロフィット専門の部署があったんです。NPOやNGOがそれぞれ設定した目標に向かっていく、そこにイベント会社としてできることをする、そういうありかたが新鮮でした。アリシア・キーズのHIVのプロジェクトに関わったり、対がんマラソン企画やインディペンデント系映画祭のスタッフの一人として現場で作業したりしましたね。
オバマ大統領が誕生するタイミングでもあったんですが、ゲイの友だちがチャリティーのパーティを企画してお金を集めたり、クラブでイベントをやったり、とにかく楽しそうにオバマ陣営をサポートしていたのを見ることができた。自分たちで出し合えるものを出してやれることをやる。こういうやりかたなら、当事者だけではなく、当事者以外の人もいっしょにLGBTのことに関われそうだなと思いました。
飲み屋の席の話しで終わらせない!
———今の活動に繋がる種のようなものがたくさんありますね。それから日本に戻られたと。
松中:はい。日本に戻って、周りのゲイの30代なかばの友だちと会って話していると、「ゲイの活動なんて…」と冷めていたり、諦めている感じがありました。でも、「何か自分たちでできるといいよね」という思いもある。でも「権利活動みたいなのはちょっと」という思いもあったりする。30代なかばというと、仕事も一段落して次のステージを探しているような時期で、自分のできることを活かしたいなと考えたりしはじめるんです。あと結婚はできないから、ずっと独身、だとしたら年をとったときにどうしよう、といったことも考えはじめるんですね。ゲイの人たちは、年をとること、エイジングについてネガティブに考える人が多いんですよ。ゲイの集まるところでも50代以降の人はだんだんいなくなってくる。親の介護とか、地元に戻る人とかもいる。とにかくロールモデルが無いんです。
この人たちと何かできることはないかなと。そこで出てきたアイデアが、じゃあみんなで一緒に暮らせないか、というもので。ゲイもふくめたすべてのセクシュアリティの人が集い、自分らしく暮らせるメゾン・ド・ヒミコみたいな老人ホームをつくる、というアイデアが出て。これを飲み屋の席の話で終わらせたくないと思ったんですね。
グッド・エイジング・エールズを立ち上げる
ーーーそしてグッド・エイジング・エールズというNPOを立ち上げることになったわけですね。先ほどお話にあった、年をとることをネガティブにとらえたり、アンチエイジングでもなく、という意味で、グッドエイジング。
松中:はい。2010年の4月4日に設立しました。立ち上げのメンバーとして、先にお話した、海の事故で亡くなった上司の奥さまにも声をかけました。その時点で、ゲイの人もストレートの人も混ざった開かれた組織になっていました。
当初は、老人ホームはまだ先のことなので、まず学ぶ場をつくろう、ということでいろいろな勉強会をしました。たとえばライフプランナーのメンバーが居たので、LGBTのためのライフプランニング講座をやりました。世の中のライフプランニングは、ストレートの人向けにつくられたものばかりなので、自分たちの将来のプランを考えたり、老後ってなんだろうということを考えたりした。福祉関連企業で働いるメンバーの繋がりで、いっしょに施設見学に行ったりもしました。
グッド・エイジング・エールズの活動はだいたいこういう流れでできていて、自分たちや友だち、知り合いの繋がりでプロフェッションを持ち寄って、いろんなことをやってきました。
カラフルカフェ
葉山一色海岸そばにつくった期間限定のサマーカフェ。サードプレースとして作った場所。こじゃれた休日の昼の場所でカフェをやる、というコンセプト。当事者もくるし、当事者の仲良しのストレートの人、外国人、LGBTフレンドリーの人などが垣根なく集る場所として。予想以上の人が来てくれて、初年度で1000人。2015年からは場所を一色海岸の海の家「UMIGOYA」に移動、今年で7回目の夏を迎えた。スタート時点からAlfa Romeoがバックアップ。
カラフルハウス
カフェがサードプレースだとすると、ファーストプレース、つまり家をつくる試み。阿佐ヶ谷の二世帯住宅をリノベしてつくったシェアハウスです。NPOのメンバーの一人がTEDで話す機会があって、そこで出会った不動産会社の人が「いっしょにやりませんか」と言ってくれてはじまったもの。現在は、下北沢にカラフルハウス2も。
work with Pride
LGBTが自分らしく働くこと、が特別ではない社会を実現したいという目的で、様々な企業やそこで働く人たちを巻き込んで新しい働き方を模索するプロジェクト。昨年は企業などでのLGBTに関する取り組みを測るためのPRIDE指標というものを策定して『PRIDE指標レポート2016』というものを作成しました。これはセカンドプレース、職場を変える試みですね。2012年の日本IBMさん以降、ソニーさん、パナソニックさん、リクル―トさん、第一生命さんが毎年カンファレンス会場を提供してくれ、多くの企業の協力を得て活動をしています。今年は、10月11日「世界カミングアウトデー」に経団連会館で6回目のカンファレンスを開催。プトジェクトのきっかけは、NPO設立当初に実施してきたLGBTシューカツ座談会。当事者として働くとはどういうことか。社会生活のぶっちゃけ話しを学ぶ場。
カラフルラン
ランニング企画や運動会、フライングディスク体験会など、スポーツイベントを通してLGBTもそうでない人もともに交流するような試みも。
カラフルステーション
渋谷区神宮前につくったLGBTに関する前向きな情報発信を行うコミュニティスペース。アメリカには各地にLGBTセンターがあった。その日本版。(現在は、コラボレーション企業である株式会社ニューキャンバスの単独運営に。)
OUT IN JAPAN
2020年までに当事者10000人の写真を、フォトグラファーのレスリー・キーが撮る、というカミングアウト・フォトプロジェクト。知り合いづてで協力してくれることになったGapさんは、「トランスジェンダーの方の多くが自分に合うスタイルがわからずで悩んでいる」という課題に知恵を出してスタイリングしてくれたり、資生堂さんはボランティアでメイクをしてくれる方たちがいらっしゃって、協力してもらった。
OUT IN JAPAN ウェブサイト http://outinjapan.com
"OUT IN JAPAN" #001 with GAP photographed by LESLIE KEE https://www.youtube.com/watch?v=nbCVUBHUNWs
みんなステークホルダーなんです
ーーーお話を伺っていると、ほんとうに自分たち、友だち、その知り合い、という繋がりから芋づる式に(という言い方も失礼かもしれませんが)、次々と新しい場ができてきた、という印象を受けました。最近一部でキーワードになっている”コレクティブ”な動きという感じもします。
松中:”コレクティブ”を目指しているわけではないのですが、結果として多くのセクターを巻き込んでいったという感じですね。「LGBTと、いろんな人と、いっしょに」と掲げていたことで、それに共感してくれる人が集まってくれた。もともとのきっかけが、「ゲイもふくめたすべてのセクシュアリティの人が集う老人ホームを」というところでもあったように、場づくりをずっとやってきたわけです。場をつくるのは人で、その人のなかには当事者もいて、混ざりたくない当事者も、混ざってもいい当事者もいる。ストレートな人の中にもどちらも存在する。「いっしょに混ざったら楽しそう」という当事者とストレートを巻き込んでいく、というのが得意なところなんでしょうね。
ーーーLGBTの活動は、ソーシャルセクターの中でも課題解決への取り組みにおいていつも先進的だなという印象があります。社会へのアピールも、実際に世の中を動かしてきた実績もあります。この点はどうしてなんでしょうか? 感覚的な鋭さや、マイノリティとしての意識の深さ、繋がりの強さなども感じます。
松中:LGBTという言葉で一括りにできないほどみんなばらばらなんだけど、セクシュアル・マイノリティという軸がベースにあるので繋がりやすいのかもしれないですね。と言いつつ、横で繋がり始めたのはここ数年の動きです。これまで様々な個別活動があり、それらのベースがあったからこその現在かと。意識や感覚については、世の中にロールモデルがないので、ふつうは使わない脳みそのどこかを常に働かせているようなところはあると思います。
LGBTは目に見えないマイノリティなだけに、それをどうやって言語化していって、可視化して、エンジンにしていくかを常に考えているというか。そういうことを考えるイマジネーションを大切にしたいと思っています。
でもそれは当事者だけではなくても想像力を働かすことが出来ます。自分から相手が困っていることを取りにいく。LGBTは7.6%だとしても、その家族や友達など含めたらみんなの問題で、みんなステークホルダーなんですよ。そしてそれはLGBT以外の課題解決でも使えますよね。
2020に向けて仕掛けるPRIDE HOUSEについて
———松中さんが2020年に向けて仕掛けようとしている「PRIDE HOUSE」についてお聞きします。どういう経緯で立ち上がってきたんですか?
松中:きっかけはヒューマン・ライツ・ウォッチの東京オフィスの方。初年度のカラフルカフェに偶然遊びにいらっしゃって、翌年にwork with Prideをいっしょに立ち上げました。以降、その他のグッド・エイジング・エールズの活動を常に応援してくれていて、ロンドンのPRIDE HOUSEの人とグローバルのヒューマン・ライツ・ウォッチの方が繋がった際に、日本で「場づくり」を行なっている団体として紹介してくださったんです。これも芋づる式の出会いでした。
トロントで2015年にパンアメリカンゲームという南北アメリカ大陸のスポーツの大会があって、トロントのPRIDE HOUSEができたんです。カナダはLGBTに関しては先進国で、もともとLGBTセンターもあった。それをベースにつくったものです。
ソチ五輪の時に、ロシアには同性愛宣伝禁止法があったおかげで、PRIDE HOUSEが作れないという状況がありました。それに向けて何か行動しようという動きがでてきて、PRIDE HOUSE インターナショナルというバーチャル組織が作られました。これは過去にPRIDE HOUSEの活動をしていた人と、今後PRIDE HOUSEの活動をしていく人たちから成る組織で、トロントにて開催されたスポーツインクルージョンサミットに、2016年のリオに向けて手を挙げている人も、平昌五輪が開催される韓国でも手を挙げる団体も参加。でも当時は日本から手を挙げる人が誰もいなかったんです。そういう流れで紹介され、僕たちの団体が関わることになりました。
2016年に本業の電通の仕事でリオに行っていたんですが、トロントのPRIDE HOUSEで仲良くなった人がリオでも無事に立ち上げたということを知り、お会いしました。話を聞いてみると、一年前のトロントで会った時には、すごく前向きに企画内容を話していた友人が、実際にリオでやる段になって、実現がとても難しかったと。民間企業がどこも協力してくれないという非常に厳しい状況で。リオはオープンに見えて、トランスジェンダー女性が年間何百人も殺されていたり、実はヘイトクライムが多い都市だということも知りました。リオでの難しさを話されて、「東京に向けて頑張ってくれ」とバトンを渡された。
そういう話しを聞きつつ、リオで仕事の大きな山場をこえて開放感に浸りながらホテルに戻ったときに、一橋大学でのLGBT差別に関わる自殺の事件のニュースを見たんです。大きなショックを受けました。
多くのLGBTは、自分がLGBTだということを隠しながら生きています。自分もそのうちの一人で、一橋の自殺した子もそうだった。社会で二重生活をしながら上手く生きようとしていたが、死を選んでしまった。人生の選択でいくつか曲がり角が違っていたら、自分もそうだったかもしれない、本当に自分は電通で働きながら二足のわらじでいいのか、ということをその時考えました。
ちょうどNPOのほうでも、事業の方向性についてこのままでいいのかという話し合いをしていて、プロジェクトが多すぎるから絞っていくのもいいのではという話も出ていた。そしてベルリンで開かれたある国際会議で、東京からはピープルデザインの須藤さん、フローレンスの宮崎さんなどが来たりしていたんですが、ディスカッションをしている中で、自分がしていることが薄っぺらいな、本質までやれてないと感じた瞬間があって、決意のタイミングかもしれないということで、グッド(エイジング・エールズ)のみんなに相談して、けじめをつけました。PRIDE HOUSEプロジェクトを立ち上げることも、電通を辞める大きな理由のひとつでした。
———PRIDE HOUSEはどんな場所になるんでしょうか。また2020年に向けてチャレンジしたいことも教えてください。
松中:場所ではあるんですが、4つの機能を持っています。
・施設:セクシュアリティを問わずあらゆる人が安心して過ごせる場所を提供する機能
・情報発信:LGBTに関する日本の地域情報や文化情報を提供する機能
・参加:地域の住民や来訪者を問わず参加できるスポーツイベント等を実施する機能
・教育:LGBTとスポーツという視点での課題やその解決方法を学ぶことのできる機能
この4つの機能をきちんとやるということを前提に、チャレンジしたいこととしては、2020年のタイミングで組織委員会と正式に一緒にやる、ということ。それをクローズドなかたちではなくオープンに、NPOや自治体など、いろいろな人がスピンオフ的に関われるようにしていきたいと思っています。
もうひとつのチャレンジは、2020年までの3年間でどれだけ機運を高めていけるかということ。OUT IN JAPANのプロジェクトもその一つです。
あとは教育という観点でいうと、カナダなどではスポーツチームに当事者が必ずいるので、指導者向けの冊子があるんですが、大学や日体協を巻き込んでそういうものをつくるといったこともアプローチしたいです。
———オリンピックでは、開催後の社会の資産になるものを残していくという”レガシー”という考えがありますが、PRIDE HOUSEとそれに関わるプロジェクトもレガシーにしていくわけですね。
松中:自治体と一緒に、LGBTセンターとして残っていくような仕組みにできたらいいですね。終わった後もアクセスがいい場所にあって、自然と人が集まれるようになったらいいなと思っています。あとはPRIDE HOUSEで作る色々なコンテンツもレガシーとして残していけたら。地方での活動もしていきたいですし、あとはオリパラのパラとLGBTの相性、マイノリティ連携もあると思っています。パラが日本で盛り上がると多様性がもりあがる、LGBTも盛り上がる、そういうアピールをするというアイデアもあるかもしれないですね。
参加した人の数だけエンジンが点火すると、その後の社会も違ってくる
ーーーやることがたくさんですね! 人材も必要だと思うんですが、どういう人といっしょにやっていきたいですか?
松中:本格的に色々な人や団体が関われる仕組み・制度作りをしてくれる人と一緒にやりたいですね。たとえば2020年までの1年でも2年でも、その時期に仕事を休業したりしながら関わりたいという人がいたとして、でも今の企業の就業体系や規則では難しかったりしますよね。単純なボランティア休暇ではなく、それをやることが企業にとってメリットがあるといった仕組みとか、国がお墨付きを与えるような仕組み、そういうものをいっしょに提案できる人なんかがいたら嬉しいです。
———あらためて、2020年という機会はいろいろな意味でチャンスだと、わたしたちETIC.は考えているのですが、その中でも松中さんの取り組みは、国際的、社会的な背景や流れもあり、もっとも具体的なプロジェクトだと感じました。
松中:2020年のオリンピック・パラリンピックという機会は、”奇跡のものさし”だと思っています。
なにかを変えたい、たとえばLGBTと社会の関わりを変えたい、と思っていても、そういう動きを社会全体でドライブをかけられるタイミングってそうそうないですよね。単に「楽しかったね」で通り過ぎてしまうのか、「仲間といっしょに参加したね」、「ゲイでよかったね」、「一緒に関われてラッキーだったね」といえるかどうか。2020年はそういう機会だと思っています。
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