ローカル起業家が地方での起業に至るまでの経緯やその始め方に着目し、紐解いていく「ローカルキャリアの始め方」。第4回で取り上げるのは、関東地方を中心に未活用不動産を活かした宿泊事業や、教育事業に取り組む丹埜 倫さん(株式会社R.project代表取締役)です。
丹埜さんは大手外資系証券会社に勤めていましたが、2006年に金融業界を離れ、株式会社R.projectを設立しました。地方の公共施設など未活用不動産を借り受け、現在13の施設を宿泊施設として運営している他、近年は既存のカリキュラムにとらわれない教育事業にも挑戦しています。
丹埜さんは都市部のプライベートセクターでキャリアを積み(D)、一気に地方での起業(A)に踏み切ったケースです。金融業界から宿泊業への転身は、一見してずいぶん畑違いの分野へ飛び込んだように思えますが……
「資格とかは持ってないんですが、昔から地図や間取りを見るのが好きで、元々不動産にはすごく興味があったんです。合宿施設の運営は、不動産活用の極みみたいなところがありますね。
宿泊業をすごくやりたかったというより、視点としては一種の投資だと思ってやっています。僕が扱っていたのは株とか証券だったんですけど、証券業ってある意味投資業ですから。現状では過小評価されてるけど、使い方によっては大きな価値が生まれるようなものを探してくるっていう観点はすごく似ているなと。不動産はすごくお金がかけられてるのに安く使えることもあって、一番おもしろいケースだと思います」
そう語る丹埜さん。実はやっていることの本質は、前職と近いものがあるんですね。今回は起業に対する考え方なども含めて、丹埜さんのローカルキャリアを追っていきたいと思います。
ギャップを埋めることに興味がある
「本来の価値と現状の使われ方のギャップがすごく大きいものに興味があるんです。自分だったらどうにかできるんじゃないかっていう気持ちはありますね」
そう語る丹埜さんが注目したのが、その「ギャップ」が大きくなりやすい地方の公共施設。そしてまた、こちらも需要と供給に「ギャップ」が生じてきている合宿ビジネスでした。
過去の公共事業で建てられた施設の多くは、地域住民のニーズに応えるためというよりも、建設費を通して地域経済を潤す目的で造られたもの。地方の急激な人口減少と高齢化に伴い利用者が減っているにもかかわらず、毎年多額の維持管理費が発生し、地元自治体の負担となっています。その結果、多額の税金を投入して建設された全国各地の公共施設で、「まだまだ使えるけど解体した方が経済的には合理的」という状況が起きているのです。
一方、スカッシュ(イギリス生まれのテニスに似たスポーツ)の日本代表として世界選手権に出場した経験もある丹埜さんにとって、スポーツ合宿は身近な存在でした。
「スポーツ合宿ってハードが重要で、地域のブランドはどうでもいいというか、僕が埋めようとしてるギャップにすごく向いてるなと。立派な施設はあるけど、人口も減っていて観光地としても人を呼び込めないような地域には、合宿ってぴったりだなって思ったんです」
学校行事や部活・ゼミ・サークルなど、小学生から大学生までの間で多くの人が一度は経験する合宿。最近では社会人のスポーツ同好会や企業研修、シニアのサークル活動なども増えています。合宿市場には、実は数千億円規模の市場があるのではと丹埜さんは考えました。しかし現在、合宿の主な受入先は1980年代に建てられた家族経営の民宿や旅館が中心。施設の老朽化や後継者不足が課題となっており、供給は長期的に減少する傾向にあります。
この合宿分野における需給のミスマッチの受け皿となりうる存在として結びついたのが、まさしく地方の未活用不動産でした。家族経営の宿泊施設と比べると、公共施設や大企業の保養所は建設時もその後の維持管理にも多額の費用がかけられています。こういった施設を活用することで、顧客満足度のより高い合宿事業を展開できるのではないかという見通しもあり、2006年、29歳で退職しR.projectの設立に踏み切りました。
偶然の出会いが事業を動かす
丹埜さんが最初に手掛けたのは、少子化の影響で閉鎖となった千葉県の保田臨海学園という臨海学校跡地。千代田区が所有していたもので、当時は解体を待つばかりの施設でした。
「最初は、東京から100㎞以内で行ける近場で物件を探してましたね。千葉は都心から近い割に自然が残ってるし、土地も安いし、羽田から渋滞の少ないアクアラインへそのまま南下できてアクセスもいい。それで内房中心に探してたんですけど、その中で『ここでやってみたいな』と思えた施設が、行ってみたらたまたま空いてたんです」
「ぜひこの施設を使わせてほしい!」と区の担当者に電話を入れたのは、解体の前週でした。丹埜さんのビジネスプランは関係者の共感を集め、約1年の工事期間を経て、同施設は国内では珍しいスカッシュコートも備えた合宿施設「サンセットブリーズ保田」として生まれ変わりました。
とは言え、これといった縁があるわけではなかった鋸南町。事業を始める際には、キーパーソンとなる地元建設会社の社長さんとの出会いがありました。出会いのきっかけを作ってくれたのは、なんとお寿司屋さん!
「まだ事業が本格化する前ですけど、たまたま寿司屋さんに通ってて、そこのおっちゃんに工事の話なんかも相談していました。そしたら常連さんで地元のいい会社があるから、工事するなら頼んでみたらどう?ってことで、その寿司屋で引き合わせてくれたんです」
建設会社の社長のような地域の有力者は地元でも顔が効くため、人の紹介など何かとサポートしてくれたそうです。
「起業のときに役立ったのは、制度とか資格とかそういうんじゃないんですよね。戦略的にやったわけではないけれども、地域への入り方として地元のキーパーソン達に受け入れられるっていうのは、地方での起業では必須だと思います」
例えば地元からクレームが入ったような場合でも、地域のキーパーソンと関係性を作れているかによって、地元側の反応も大きく変わってきます。人間関係ができているからこそ、穏便に収まるケースもあるのではないでしょうか。
「コンサル」ではなく、「当事者」として地域と関わる
このような地元の人達との関係づくりで丹埜さんが意識していたのは、外資系企業での経験とは相反するようですが「コンサルっぽさ」が出てしまわないようにすること。
「大事にしてきたのは、自分自身が当事者になるっていうこと。キーパーソンになるような人は地域に対して理想をもってやっている方が多いですから、借金して人を雇用して事業をしようとしてる、コンサル的じゃなくリスクを取ってここで頑張ろうとしてるっていう姿勢が伝わると、優しい人達です。面倒見てくれるというか」
丹埜さんは創業期の約5年間、鋸南町に居を構えていました。住民として、事業者として地域に根差したからこそ、「当事者」として感じ取れるようになることがあったといいます。
「しゃべり方1つ取ってもコンサルっぽい人って結構いますけど、そういう人って簡単に地域を再生するとか言っちゃう。その時点で、もうコンサルですよね。再生ってなんだよ、死んでないよって話。そういう小さいところに姿勢が出ちゃうと思うんです。それが地元の人からすると受け入れづらいし、仲間感もない。だからこそ、自分は後参入の当事者なんだっていう意識をもって、できるだけ謙虚に、当事者として仲間に入れてほしいんだ、っていう姿勢を大事にしようとしているつもりです」
寄せ集めのメンバーから始まった「サンセットブリーズ保田」
地域との関係を少しずつ築きながらオープンさせた「サンセットブリーズ保田」ですが、ビジネス戦略はあったものの、サービス業の経験や知識は皆無。合宿施設の運営ノウハウはどのようにして培われていったのでしょうか?
「R.projectは今の妻と始めたんですけど、創業時のメンバー6~7人はほとんど寄せ集めでした。知り合いの知り合いとか、仕事探してるとか、辞めるタイミングだったとか……
サービス業や宿泊業の経験がある人を迎えたわけでもないですし、どこかとコンサルティング契約やアライアンスを組んだりしたわけでもないので、本当に独自に失敗しながら学んでいきました。大きな失敗というよりは、日々お客さんを受け入れる中でちょっとしたミスがあったり、足りないところが見つかったりですね。経験を積んできても、新しい施設をオープンさせるタイミングだとチームも新しいので、ミスが起きてしまうこともありました」
そして、地方で事業を運営する上で大きな壁となったのは人材集めでした。特にオープン前は、企業としての実績もないため業務内容がイメージしづらく、地元人材の雇用は難しかったそうです。
「民宿やりますって言ったら想像しやすいんでしょうけど、発展性ももたせたかったのであまりシンプル化したくなかった。とは言え、公共施設を有効活用しながら地域のバリューを上げて……みたいな言い方だと地元の人はイメージがつかない。人集めは最初は本当に苦労しました」
オープン当初は創業時に東京で集めたメンバーが中心でしたが、実績がつくにつれ現場はほとんど地元採用のメンバーで回すことができるようになっていきました。
「今は地方に現場がありつつ、東京にも拠点がある会社というスタイルが確立してきたので、人事や営業を担う人材やマネージャーといった東京採用のメンバーと、現場のオペレーションを担う地元人材の採用を分けてる感じはしますね」
オープンから5年が経過する頃には運営も軌道に乗り、2012年8月にはコテージ型の宿泊施設「サンセットビレッジ」が、2013年7月には企業の保養所を改装した貸切型の「サンセットビーチハウス」が相次いで増設されます。更に、地元関係者と協力して設立した「一般社団法人鋸南クロススポーツクラブ」では、スポーツ教室やマラソン大会といった大型スポーツイベントも定期的に開催され、スポーツの盛んな町として鋸南町自体の知名度も徐々に上がっていきました。
「サンセットブリーズ保田」の成功は、合宿事業からスポーツ振興と町おこしを成功させたモデルとして注目を集めます。遊休施設の活用に関する相談も増え、現在では関東近郊を中心に13の宿泊施設を運営するまでに成長しました。
サラリーマンから経営者へ。マインドの大きな変化
サラリーマンからいきなり地方での起業という選択をした丹埜さん。独立時の不安はなかったのかという質問に対しては、「そんなになかったですね」とあっさり。
「有名企業のサラリーマンっていうステータスにはあまり執着してなかったし、食っていくくらいは絶対できるはずだという根拠なき自信はありました(笑)あとは、金融業界特有なのかもしれないですけど、転職はみんな常に考えてる世界なので、いざとなったら戻れるだろうと」
そんな丹埜さんにとって、都市から地方、大手企業からベンチャーという変化以上に大きかったのが、サラリーマンから経営者へという立場の変化だったそうです。
「比較的プロ意識の高そうな証券会社であっても、受け身というか、与えられる立場だったんだなぁと改めて感じてます。結局はサラリーマンなんですよね。給与は与えられるものだし、会社のよその部署の人間関係なんて全く関係ないことだし。大きな会社だと、それによって自分が影響を受けるわけでもないし、主体的に解決しなきゃいけないわけでもない。でも経営者になると、それが全て自分ごとになる。
あとは、元々愚痴っぽいタイプではないですけど、愚痴がなくなりますね。結局やるしかないので。そのへんは大きく変わりました」
また、独立して経営者という立場になったことで世界が広がったといいます。
「特に経営者同士の出会いは増えました。サラリーマンを続けてても、40代にもなれば企業内でそれなりに人間関係は広がってたかもしれませんが、その質が違いますよね。
それからビジネスチャンスや社会的意義があると思うところに、自分達の意志でチャレンジできるようになった。これは会社にいていくら出世してもやれないことなので、そこはすごくおもしろい。チームもあるし、金融機関からの一定の信頼もあるから、やりたいと思ったときにやれる人とお金のバックアップがある。これは独立したからこそできることだと思いますね」
そして多くの人が独立を考える際に頭をよぎるであろう、収入の変化。ここに対する考え方も、起業に対してあまり不安を感じなかったという一因かもしれません。
「独立して10年以上経つので、給与は明らかに億単位で失ってる気がしますね(笑)ただ、あまり使うタイプじゃなかったので、使わなかったらあまり変わらないですよね。今使うお金が欲しいんだったら給与が高い会社でサラリーマンをやってた方がいいですけど、事業がうまくいっていれば、いずれは投資した分を回収したり、自分への給与を上げたりする余地も出てくる。そういう長期的な楽観論があるので、そこまでデメリットだという風には感じないですね。今はそれよりも事業を拡大したいです。拡大すれば必然的に余地も出てきますし(笑)
生涯年収が高いっていうのは1つの考え方ですけど、自分で価値のある会社を作ってそこに株なんかを所有していれば、それも財産。お金に関しては、短期的には確実に犠牲になりますけど、基本的には両立を目指してる。回収の時期はだいぶ先になりそうですけど、お金かやりがいかって天秤比べにはしたくないです」
元々は飽きっぽく楽観的なタイプだという丹埜さん。飽きっぽいにもかかわらず、10年以上も事業を続けられているのはなぜなのでしょうか。
「投資したからっていうのもあるんじゃないかな。基本的に運営している物件は借り受けてやっているんですが、サンセットブリーズは買っちゃいましたから。
それから、あとはやっぱりスタッフの存在ですよね。1人だったら違うことをやってるかもしれませんけど、人を採用したら当然『もういいや』とはやれなくなりますよね。人を雇用して事業をすると、必然的に長期的な視点になれると思います」
ここからも、やはり「経営者」という意識の変化による影響の大きさが伺えます。
「リアルモノポリー」のようなダイナミズムを感じられるのが地方の醍醐味
丹埜さんは、世界でも有数の大都会・新宿出身。鋸南町で事業を立ち上げるまでは、地域と関わってきた経験もほとんどなかったそうです。
「子どもの頃から親が千葉に山を買ってそこを拠点にいろいろやっていたので、その影響もあって地方とか自然とか旅行は元々好きでした。なので、なんとなく地方でビジネスをやるイメージはできましたね」
単に旅行などの趣味で終わらせなかったのは、ビジネスを通じて都心では起こり得ないようなことを起こせるチャンスが地方にはあることを身近に感じたから。
「北海道にニセコってありますよね。前職の同期や先輩がこのエリアに投資してたんです。空いてたレストランを外国資本が買って、バーに転換されて、仕事もなかったはずのところで地元の若い人達がバイトして、夜はクラブみたいになってて……街がどんどん変わってく様子が目に見えてわかる。良し悪しは置いとくにしても、人が戻ってきてる、雇用が生まれてる、経済が活性化してる。ゲレンデもまた動き始めているし、しかも稼いでる。このリアルモノポリーみたいなところに、やりがいもビジネスチャンスもあると思いました」
大都市では街の変化といったダイナミズムはわかりにくいもの。自分が関わることによるリアルな変化を感じられるのは、地方ならではの醍醐味です。
「両立することに興味があるんですよね。地方だと、ビジネスとしても成り立ってるけど、社会的にも意義があることをやっているんだいうことを実感しやすいと思います」
既存のレールを離れた経験が支えになっている
固定概念にとらわれず、物事の本来のポテンシャルに可能性を見出すという事業を展開してきた丹埜さん。現在は、既存のカリキュラムにとらわれない教育を、選択肢の少ない地方でこそ展開したいと、新たな事業にチャレンジしています。
日本のインターナショナルスクール、ケニアの日本人学校、イギリスの全寮制学校、日本の公立学校、私立高校、慶応大学……という自身の多様な教育歴の中でも、支えとなっているのは意外にも高校を中退した経験でした。
「自分で事業をやる上でも、むしろ教育界から離れたアクションこそが一番役に立ってると思います。自分で考えて行動したことに対して責任を持つとか、既存のレールから外れることによって発生するいろいろなことを自分で管理するとか。一番は、辞めても戻れるんだっていうのを実感できたこと。大検を受ければみんなと同じ扱いで大学受験もできる。こっち側にも行けるっていうのを体験すると、『自分の人生っていうのはこう』と決め込まなくなる気がしますね」
そもそも高校を中退したのは、学校で教えられることと社会に出て役に立つことがあまりにもかけ離れていて、学ぶ意義を感じられなかったから。受験のためのテスト勉強中心の学びではなく、ディスカッションやディベート、英会話のようなコミュニケーションスキルや、インターンシップと組み合わせたプロジェクトマネジメントといった、実社会で活きる学びを地方で提供することを目指しています。2018年には都内のインターナショナルスクールを子会社化するなど、実現に向けて本格的に動き出しました。2020年秋頃を目途に、一般家庭でも手の届く価格帯で、地方に寮制のインターナショナルスクールを開校すべく、着々と準備が進められています。
「リアルな社会に触れる機会を作って大人とコミュニケーションを取るとか、自分で考えて行動してみるとか、自分で選ぶってことをもっともっとやった方がいいと思うんです。この分野は公共施設の活用以上にやりがいがもてるし、意義がありますね」
地方において、特に高校以上の教育の選択肢の少なさは、子どもをもつ世代が地方への移住を考える際、大きなネックとなる要素の1つ。丹埜さんが創る新しい教育事業に、今後も注目していきたいと思います。
この特集の他の記事はこちら
>> ローカルキャリアの始め方。地域で起業した経緯と始め方をクローズアップ!
あわせて読みたいオススメの記事
#ローカルベンチャー
#ローカルベンチャー
#ローカルベンチャー
【イベントレポート】民間の立場から公益を担う、今注目の「パブリックベンチャー」とは?
#ローカルベンチャー
#ローカルベンチャー