二輪メーカー勤務時代は、モータースポーツ企画運営の傍ら、自身も選手としてレーシングカートの競技に出場していたという、異色の経歴をもつ高橋由佳さん。現在は認定NPO法人Switchの理事長を務め、「学ぶ・働く」を軸に様々な困難を抱える若者の就学・就労支援に取り組んでいます。
高橋さんは仙台を拠点に、レーサー引退後(C1)、専業主婦を経て社会人スクール(C1)や宮城障害者職業センターで勤務する(B1)など、徐々にパブリックセクター寄りの方向へとキャリアを重ねてきました。障害者の雇用促進に取り組む中で感じた、「支援の枠組みからこぼれ落ちるひとたちがいる」という問題意識がNPO法人Switchの設立(A)につながっていくのですが、起業へと舵をきるきっかけの1つとなったのが、バイク事故で仕事を辞めざるを得なくなるという、思わぬできごとだったのです。
40代からの挑戦ということで、これまでの起業家の方にはない“終の棲家”という新たな視点で地方を捉えている点もユニークに感じられました。「学ぶ・働く」を大切にしてきた高橋さんの、しなやかなローカルキャリアをご紹介します。
支援のレールに乗れない人達はどことつながればいいのか
仙台で社会人スクールの仕事をやっていた頃、精神面で困難を抱える若者から、不登校等で高校は辞めてしまったものの、就職のために資格を取りたいという相談を数多く受けていました。しかし、専門的な知識がないため説得力がないと感じた高橋さんは、通信制大学で精神保健福祉士等の資格を取得します。
資格取得後はそれを活かせる仕事を求め、宮城障害者職業センターでジョブコーチ(職場適応援助者)として障害者の雇用促進に取り組み始めました。ジョブコーチは、障害の特性とマッチした仕事に就くための支援や、就職後にうまく定着できるようサポートを行います。国レベルで言うと厚労省、都道府県レベルだと労働局が管轄する分野の仕事です。ですが、支援の枠組みが決まっている仕事の限界もありました。
「支援のレールに乗れた人はいいんだけど、ダメだった人はどうなったのかが気になったんです。支援対象にならなかった人が仕事を見つけられていない。法律上当てはまる制度がなくて、どこにもつながっていない、レールに乗れないひとたちがいるんです」
バイク事故をきっかけに、NPO立ち上げの道へ
とは言え自分で起業するなら50~60代になってからだろうと考えていた高橋さんを、思いがけない大事故が襲います。メーカー退社後も趣味として続けていたモータースポーツでしたが、エンデューロというオフロードでのバイク練習中に転倒し、大腿骨複雑骨折の重傷を負ってしまったのです。当時高橋さんは、S-ACT(Assertive Community Treatment:包括型地域生活支援プログラムで、重い精神障害を抱える人が、住みなれた場所でその人が望む生活を実現していくためのサポートプログラムのこと。Sは仙台のS)のチームの一員として就労支援を行っていましたが、その仕事も続けられないほどの怪我で、車いす生活を余儀なくされました。
「それまで支援する側だったのが、突然社会的弱者になったんです。いろいろ悲観もしましたし、10ヶ月くらい引きこもっていました。それですることもなくて家でネットサーフィンをしていたら、NPOを立ち上げた学生さん達や、社会起業家と言われるような若い人達がたくさん出てくるんですね。その人達がすごくいきいきして見えて、『自分もNPOを立ち上げたら何かできるかもしれないな』って思うようになったんです」
その勢いで法人設立の方法等も調べ、周囲の人に声をかけると会社を辞めて手伝うという人まで現れました。
「スピードが大好きなんです。なんでもせっかち。思い立ったらすぐそっちの方に行ってしまう。次に行った方が自分を活かせると思ったら、あまりしがみつかない方ですね。『ここは私がやらなきゃ。やめたら大変になる』ではなく、『私がやめたら誰かがやるだろう。そんなに自分がすごいわけじゃない。他の人がやったらやれるはず』という考え方です」
レーサー時代の高橋さん
高橋さんは、障害福祉サービスという制度を使って事業を立ち上げます。福祉分野になじみがないと聞きなれないかもしれませんが、障害福祉サービスとは、障害者支援について定めた「障害者総合支援法」に基づいて提供されるサービスの総称です。訪問介護やグループホームなど幅広いサービスがありますが、高橋さんが設立したNPO法人Switchは宮城県仙台市を拠点に、就労を希望する人に一定期間、知識や能力向上のための訓練や、必要なサポートを行う就労移行支援所としてスタートしました。
しかしその直後、未曾有の被害をもたらした東日本大震災が襲います。設立からわずか9日後のことでした。
法人立ち上げの矢先に起こった東日本大震災。拠点は石巻へと広がる
震災により状況は一変。集まったスタッフも一旦解散となります。人手が足りないと聞き、高橋さん自身はソーシャルワーカーとしてまずは南三陸に入り、数日間訪問支援のボランティアをしました。しかし全く人のつながりがない南三陸に何度も足を運ぶことは難しく、支援の手は自然と縁のある石巻へと向かいます。
「実はお嫁に行った先が石巻で、24歳から11年間住んでいたんです。離婚したものの、その後も人のつながりはありましたし、石巻のことはすごく気になっていました。石巻に育てられた、恩返しをしたいという想いがあったんです」
精神保健福祉士の資格を持っていたため、保健師さんとの仮設回りなどで度々石巻と仙台を行き来する機会があった高橋さん。その中で、心のケアや困難を抱えている人への就労支援がこれから被災地でますます必要になってくるだろうと感じます。
「仙台と沿岸部の被害の違いに愕然としました。障害福祉サービスを受けるには一定の要件があるんですが、そこからこぼれ落ちる人がいるんです。特に被災地は機能してない。鬱になったり仕事を失ったり……障害者手帳こそ持っていないけれど、社会的弱者になってる人が大勢いた。そんな方々を早期にサポートするためにも障害福祉サービスの枠にしばられない自主事業が必要になるだろうということで、もう一度スタッフに集まってもらい、改めて仙台でスタートしました」
一過性の被災地支援ではなく、継続性のある事業として公的な支援の狭間にいる人達をサポートすべく、「スイッチ・センダイ」の開所に続き、2013年6月、新たな拠点として「ユースサポートカレッジ 石巻NOTE」を設けます。思春期世代に心の問題を抱えているケースが多いにも関わらず支援機関が少ないことから、10~20代の若者を対象に就学や就労等の進路決定のサポートを始めました。
NPO法人Switchの仲間と
石巻で見えた新たな事業
「仙台と石巻で事業所を設けたことで、都市部と地方の課題の違いが見えてきました。私自身はどちらかというと地方に目が向いているように感じます」
「石巻NOTE」でスタッフと就労支援に取り組んでいた高橋さんは、ひきこもりや不登校の生徒達の職業実習等にも携わります。協力してくれる企業を開拓する中で、「農地が余っているから、みんなで農作業したらリハビリにもなるんじゃない?」と声をかけられたのが、新たな事業「イシノマキ・ファーム」の始まりでした。同じく震災のため仮設住宅に引きこもりがちとなってしまった高齢者の方々も一緒に、早速農作業をやってみることにしました。
「農作業を通じて、引きこもっていた子達がすごく元気になっていったんです。高齢者の方も一生懸命農業を教えてくれて、ほんとによく声かけしてくださるんですね。『よくできたな』、『この調子でがんばれ』とか。それで子ども達も、『自分はここにいていいんだ』という感覚をもてるようになっていったんです。同時に野菜を収穫して家に持って帰ると喜ばれたりして、人の役に立つ感覚も育まれていった。社会とのつながりを取り戻すための場として、農業は非常に効果的だと感じました」
ふとしたきっかけから動き始めたファーム事業でしたが、農業の力に可能性を感じた高橋さんは拠点となる場所を探し始めます。1年半ほど探してようやく見つけた古民家があったのが、石巻市街地から車で40分ほどの北上町でした。北上町は同じ石巻市内とは言え、市街地と比べると社会資源が少なく、耕作放棄地も目立つ地域です。だからこそ、ファーム事業をやる意義がより強い地域だとも言えます。これまで全く未開拓の、農業という分野での新たな挑戦が始まりました。
「確かに農業はこれまで全然タッチしてこなかったんですけど、農場でみんなが笑顔で、楽しそうな声が飛び交っているのを見ると、これはもう自分がやらなきゃいけないみたいな気持ちにかられた。原動力になっている、忘れられない光景です」
実は活動の拠点となる古民家を紹介してくれたのは、役場の方と、この連載の第5回で紹介した合同会社巻組なのだそう。
「石巻は団体同士どこかでつながっているんです。地域のまちづくり団体とか中間支援組織のことも元々知っていたので、巻組さん同様、自然とつながることができました。その古民家の後ろに住んでいたのが役場の方で、農地を探してくれたり、人を紹介してくれたりもしました。そうこうしているうちに農地を貸してくれる人や手伝ってくれる人も現れて……そんな風に少しずつ広がっていったんです」
巻組により古民家はリノベーションされ、青い瓦屋根がトレードマークのシェアハウス“Village AOYA”として生まれ変わりました。農業分野での就労支援を本格的にやっていきたいということで、2016年8月、ファーム事業を「ソーシャル・ファーム(Social Firm)」を理念とした「一般社団法人イシノマキ・ファーム」として分社化・独立させます。「ソーシャル・ファーム」とは、障害者など労働市場で不利な立場にある人々の雇用を生み出すことに焦点を当てたビジネスです*。精神面での問題を抱える石巻周辺の若者の中間就労の場となっているだけでなく、児童養護施設を退所した人や、就農したい人、大企業で疲れた人などもAOYAを訪れます。農作業を通じた心の回復と人材育成によって、農業従事者の高齢化・後継者不足を解消し、地域の中で人が循環できる仕組みを作るべく、新たな事業が動き始めました。
ホップ栽培作業の様子
地方で弱者が生きていけることは、都市部の課題解決にもつながる
Switchは基本的に、国から給付金をもらって障害福祉サービスを提供する事業型NPOとして活動しています。ですが高橋さんは、「ずっと保障費が続くわけではないのではないか」と警鐘を鳴らします。
「国に頼っていては安泰ではないんです。利益を生んだ中で社会的弱者を助ける仕組みを作っていく必要があると感じています。石巻では全国より15年早く高齢化が進んでいると言われています。都市部ではなかなか危機感をもてないからこそ、先駆けて試していける地域なのかなと思うんです。まずは石巻でやってみて仙台へというように、地方で挑戦して得られた知見を都市部で活かしていけるのではと考えています」
だからこそ、ファーム事業のような給付型ではない自主事業に挑戦する必要があるんですね。そしてこういった問題とはまた別に、ファーム事業は都市部で社会的弱者になってしまっている人にとっても1つの解決策になりうる事業だと感じているそうです。
「都市部の生活圏域では、家賃や食材などの生活コストが高いイメージがあります。一方で地方は、食費も自給自足や物々交換でなんとかなる部分が大きいし、生活費が安い。待機児童もないし、見守り支援は近所のおじいちゃんおばあちゃんにお願いすることもできると考えたら、結構豊かだと思うんですよね。
都市部に住んでいると生活水準を維持するのに精一杯の方が、地方だと余裕ができ、豊かな暮らしに変わると感じています。例えば、都市部で生活弱者であっても、地方だとあたりまえに生活ができると考えます。また、短期の体験滞在やファームステイの先には、移住定住の選択肢もありますし、共生型の社会を作れるような仕組みとして、可能性を感じています」
都市部と地方の課題を分けて考えるのではなく、双方の課題解決につなげるといった視点で事業を見ることができるのは、仙台と石巻の2つの拠点があるからこそかもしれません。
“終の棲家”としての北上
これまでの人生で地域と深くかかわった経験はあまりないという高橋さん。ファーム事業を始めた当初はやはりよそものということで、地域に受け入れてもらえるのか不安もあったそうですが、地域住民の方々にいろいろと教えてもらいながら、徐々に地域と溶け込んでいきました。AOYAの宿泊者の方々とご近所との交流会も、ときどき開催されています。
「飲みに行くのはちょっと遠いので、月1回くらいやってもらうといいなぁ」
と笑う高橋さん。北上町には、単に事業を展開する場所以上の思いがあるといいます。
「実は北上町の白浜海水浴場には、小さい頃からしょっちゅう親に連れて行ってもらっていました。川とか海とか自然が好きで、夕日を見ながら帰ったり……思い入れのある土地なんです。自分の老後を考えたときに、自身の移住先として、終の棲家のつもりでいます。
私はシングルだし、十分な年金はもらえないかもしれない。そんなにいつまでも働き続けられないし、家計計算しただけでもおそろしい(笑) だから自分が健康で、お金に依存せず生きていけるなら、自然も好きだし、北上の方が幸せに過ごせるんじゃないかと思うんです。
みんな老後は駅から近いマンションに住みたいって言うけど、私は真逆ですね。人のつながりの中で、助けたり、助けられたりしながら生きていけたらさみしくないだろうなと。都会だったらさみしいだろうと思いますよ。環境としても、老後の生き方としてもフィットしている。ここでの生き方が自分に合っていると思います」
2019年の2月からは完全に生活拠点を北上町に移し、逆に仙台の事務所へ週に1~2回出張するというスタイルになりました。「私のwell-beingな生き方に近づいています」という言葉からも、北上町での暮らしに満足している様子が伺えます。
イシノマキ・ファームの仲間たち
「学ぶこと」「働くこと」は、社会とのつながりそのもの
イシノマキ・ファームは3年目を迎え、首都圏から移住してきた20~30代の若手の移住者が3名、新たに職員として活動するまでになりました。思いをもって取り組んでいるメンバーを北上町側も温かく迎え入れてくれ、住民と顔の見える関係性ができてきたといいます。農業をやりながら学び直しや仕事探しができる、全寮制の学校のような枠組みを作りたいという次なる展望も生まれ、ファーム事業は草創期を脱し次のステージに進もうとしています。高橋さん自身も60歳を数年後に控え、「時代が変わっていく中で、新しい人達が新しい時代を作っていくのは大事なことですから」と、少しずつ権限移譲を進めていく考えです。
これまでSwitchの立ち上げから一貫して「学ぶこと」「働くこと」のサポートを続けてきた高橋さんにとって、3.11が近づくと思い出されるエピソードがあるといいます。
「震災直後、南三陸へ支援に行ったとき、車中泊をされている男性に出会いました。その方は昼間いなくなって夜帰って来る。家族も家もなくなったけど仕事はあるんだそうです。『仕事があるからなんとか生きていける。なかったらどうでもよくなってた』とおっしゃっていました。私達に被災者しかもらえないおにぎりをもらってきてくれたりしたのですが、本来そういう風にする相手はいなくなってしまった。そんな中で、生きる術としては仕事があってよかったんだと思います。
高台で遊んでいる子ども達も、『学校でみんなに会いたい。それが楽しみなんだ』と言っていました。学校に行けるっていう希望があるから前向きになれる。学ぶこと、働くことは生きる糧のひとつなんだと感じたできごとです。あえてこういうことがあったから、大切にしていかないといけないんだと思います」
チェッカーフラッグが振られるまで結果はわからない
高橋さんが目指すのは、障害のあるなしに関わらず誰もが共存していける生き方です。
「障害って言葉を使いたくないんです。あのまま車いすだったら、私も身体障害者だった。枠組みで人間をはかったりしないで、スティグマをなくすことが究極の理想です」
多様性を認め合うというのは、一般に人との距離が近く、「田舎」と言われる地域ほど難しいのかもしれません。だからこそ、誰もが居心地よく暮らせる社会を地域の人と一緒に作っていくという挑戦は、都市部にとっても示唆に富むものとなるのでしょう。
「レースをやってたからか、チェッカーフラッグが振られるまで結果はわからないって思うんです。自分がその土地に行ってみないとわからない。考えるよりも行動するっていうのは、そういうところからきているんじゃないかな。トップを走ってた人がスリップしたり、急に雨が降ってきて周りがみんな遅くなって運よくゴールできたり。地方で挑戦することも同じ。やってみないとわからないですよ」
*参考:
CUVEL「ソーシャルファーム用語集」
http://www.cuvel.co.jp/ソーシャルファーム用語集
DINF「ソーシャル・ファーム」
https://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/glossary/Social_Firm.html
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>> ローカルキャリアの始め方。地域で起業した経緯と始め方をクローズアップ!
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