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「これだ!と思えた人生を楽しみたい」カンボジア移住から15年、SALASUSU青木健太さんの旅【後編】

2024.04.04 

2023年からカンボジアの公教育改革に本格着手したNPO法人SALASUSU(サラスースー)の青木健太さん。「誰ひとり取り残さない」をもとに、教師のトレーニング、学びの場づくりを推進しています。

 

カンボジアの公教育改革の取り組みを紹介した前編はこちら>>

 

後編では、青木さん自身が子どもの頃に影響を受けた家族の話、約15年前に創業した認定NPO法人かものはしプロジェクトから独立する形でNPO法人SALASUSUを設立した当時の話、また仲間たちへの思いなどを伺いました。

 

青木 健太さん

NPO法人SALASUSU 理事長/認定NPO法人かものはしプロジェクト理事長

1982年生まれ。2002年、東京大学在学中に、村田早耶香さんと本木恵介さんと 3人でNPO法人かものはしプロジェクトを創業。子どもの人身売買の撲滅に取り組む。その後大学を中退し、創業期は IT事業を担当。 2009年、カンボジアに移住し、ソーシャルビジネスと教育事業に取り組んできた。現在カンボジア在住15年目。

2018年かものはしプロジェクトのカンボジア撤退にともない、NPO法人SALASUSUを設立し理事長に就任。認定NPO法人かものはしプロジェクト理事長(2022年7月~)

カンボジア国際商工会教育部会副部長。NPO法人SALASUSU 理事長

好きなもの:「同窓会」「文化祭」「仮装して走るマラソン大会」

趣味:フットサル

note:https://note.com/kentaf4/

両親から大きな影響を受けながら旅が始まった

 

――青木さんご自身が子どもの頃から影響を受けたと思うことはありますか?

 

実家は、両親と姉と僕の4人家族ですが、今考えると、特に両親から受けた影響は大きいと思います。父はずっと銀行員として海外出張も多く、大きな仕事も任されていたようですが、とても腰の低い人で、僕たちの仲間に対してもすごくフラットなんです。83歳の今も団体のイベントによく参加して、最後まで残って、一言かけて帰って行きます。「お前、スタッフに恵まれているんだからちゃんと感謝しなきゃいけないぞ」と言われたことも覚えていますね。スタッフもインターン生も、父のことを「修三さん」と呼んでいます。父の腰の低さ、「仕事には哲学が必要」といった考え方などは影響されていると思います。

 

――お母様はどんな方ですか?

 

ピアニストです。この前、「今年もコンサートを開催する」と話していました。印象的なシーンとしては、母は、僕が子どもの頃から毎日ピアノを弾いているんです。毎年ドイツに行って先生に習うこともずっと続けていて、好きなことをやり続ける、クオリティは妥協しないといったことは、母から教わったような気がします。

 

――ご両親との印象的な思い出はありますか?

 

母はドイツには一度に2~3週間ほど行くのですが、僕も小学生の時に何度かついて行きました。母がピアノを習っている間、僕はドイツでサマーキャンプに入って、その後、母と1週間くらい旅行して帰国していました。

 

 

――SALASUSUのミッションに「旅」という言葉が使われています。そのほか、思いを語る場などでもよく「旅」が登場しますが、どんな思いが込められているのでしょうか。

 

最初のきっかけは、工房のブランドの立ち上げで、カンボジアを訪れる旅行客に向けて作ったコンセプトでした。ただ、2023年夏にブランドを終了してからも全体的に「旅」をたくさん使っているのは、理由がいくつかあると思っています。1つは、僕自身が旅のように人生を歩んでいると思うこと。先のことは、わからない。キャリアも、今本気で取り組んでいる教育の取り組みも何が起こるか分からない。だから、面白い。

 

また、「Education is journey to unknown world」という定義を語った方がいて、言葉や考え方に惹かれました。本質的に分からないところに歩いていくことは不安もリスクもあります。ただ、旅って、ネガティブなものに捉えられない傾向があって、旅先で「何かわからないけど楽しい」と思うことはありませんか? 学びや教育も、僕の中では一体化していて、プロセス自体が楽しいと思うんです。難しい問題を解き始めたとして、もしかしたら解けないかもしれない、そんなリスクも含めて楽しい時間になる可能性が高いと思って、教育自体も僕の中で「旅」と一体化している気がしています。それに、「勉強はつらい」という人も多いと思うので、「学び」と「旅」の相性の良さも感じています。

スタッフがやりたいこと、ありたい姿を知りたい

 

――今年1月8日にカンボジアで実験校をプレオープンしました。信頼できる仲間、教員はどんなふうに募ったのでしょうか。

 

今いる仲間たちとどうして一緒に教育改革の取り組みをしているのか、と考えた時に、理由は2つあります。1つは、一緒にいた時間、密度です。僕はカンボジアに住みながら、15年、工房の運営を続けてきたので、それだけでカンボジアの人たちから信頼してもらえるんです。仕組み的に、海外での支援活動は3年や5年で撤退することが多いのですが、僕たちは15年以上続けていて、その間につくられた地元の人たちとの信頼関係は大きいと思います。

 

SALASUSUから少しずつ教師のつながりが広がっている。青木さんは写真後列の右端

SALASUSUから少しずつ教師のつながりが広がっている。青木さんは写真後列の右端

 

もう1つ、僕は、日本人のディレクター陣が本当によく働く人たちだと思うのですが、どうして彼らがSALASUSUにいてくれるかというと、僕が彼らのやりたいことやありたい姿、「どういうふうに生きたいか」をよく聞くことが大きいでしょうか。

 

――定期的にお話を聞く機会を作っているのですか?

 

みんなで話し合うという感じですが、僕自身、自分の人生に関わった人たちがどう生きていきたいのか、すごく興味があるんです。「いい人生であってほしいな」という願いもあります。みんなが思いにどう一歩近づくのか、自分の進みたい方向で何か発見できるか、そのきっかけを作る場所としてSALASUSUという団体を活かしてほしいと本気で思っています。だから、みんなの話を聞かないと僕は何もできないんです。といっても、「あれやって」と指示することは得意じゃなくて、「何がしたいですか?それならこうするといいかもしれないです」と言いたい。

 

本人も何が自分の願いなのか分からなくて、「とりあえず国際協力をやってみたい」とカンボジアに来たとしても、1年、2年かけて聞いていくと「やりたいことと違っていました」となることも当然あると思います。ただ、「国際協力じゃなかった」と言っていた人が、今、仕事を担当した学校の校長をやっていたりするんです。すごくガッツを持って、立ち上げて。「自分の人生で教育というテーマを見つけるなんて思ってもみなかった」と本人は話しています。

 

また、みなさん、きっと楽しんで仕事をしていると思います。「青木さんとの仕事は楽しい」と言ってくれています。僕も楽しいです。

 

――青木さん自身、今回の公教育改革も楽しいから取り組まれているのですか?

 

そうですね。僕は「楽しいから」という気持ちが大事だと思っています。

「これだ!」と思えるものがなかった人生が35歳から変わっていった

 

――2002年、かものはしプロジェクトを創業した当時の話から教えてください。当初、人身売買問題について、共同代表の村田早耶香さんの話に青木さんは興味を持って聞いていたと認識しています。どんな気持ちで村田さんのお話を聞いていたのでしょうか。

 

当時のことはすごく覚えていますが、僕自身は、何か一つの課題に対して主観的に「こうしたい」と熱量を持つことが長い間できないでいました。社会起業家の方々と接する機会が増えてからは「やりたい」と憧れが生まれていきましたが、起業をするためには、社会課題への強い想いを自分の真ん中に持って「どうにしかしたい」と思っていることがすごく大事だと思っていました。そうすると「僕じゃない」と一瞬で思うんです。

 

村田さんの話を聞いた時には、「どうにかしたい」と思っている人が目の前にいると感じました。19歳でかものはしプロジェクトの活動を始めてから、もう22年経ちますが、最初の15年間は、徐々にいろいろな意識が醸成されていったと思います。リーダーとして、人間として。でも、「これだ!」と強く思うことはないまま、常に次の3年くらいも楽しくて、自分が成長できて、社会に貢献できたらいいなと思ってきました。その意識で人生を賭けてきました。

 

学生時代から何も決めないまま、将来の選択肢が増えるように動いていたとも思います。決め方がわからないから、選択肢が広くなる理系に進むとか、あとで学部を選べる大学に進学するとか。

 

 

変わったのは、35歳くらいで、かものはしから独立するとなった時です。独立まではいろいろな過程があったのですが、その時間が、カンボジアの「公教育」への想いが大きくなったきっかけだったと思います。

 

かものはしでカンボジアから撤退することを決めた時、最初、僕が「じゃあ僕がカンボジアに残ります。独立します」と言ったんです。でも、共同代表の村田や本木からすごく止められて。「どうして!?」と。僕はカンボジアで事業を作って展開することが楽しかったから、これまでと同じように次の3年後に何かを選択するまでカンボジアにいればいいと思っていました。そうしたら2人からすごく反対されて。もし、「カンボジアの事業はもっとうまくやれるはずだから」「カンボジアの事業をこのまま止めたら、一緒に働いてくれた約100人のスタッフに申し訳ないから」といった気持ちならやめたほうがいいと。

 

当時、かものはしプロジェクトの事業として、ライフスキル教育の授業を行っていた時もすごく苦労したのに、本部をもう一度ゼロから立ち上げて、さらにもう一度育てていくことは本当に大変だから。自分の心の中に「これをやっていると元気が出る」といったエネルギーの泉のようなものを感じられるのなら応援できるけれど、そうではないなら止めると言ってくれて。35年間の人生で、そんなふうに先のことを決めることがなかったので、最初は少しとまどいましたが、仲間たちは、15年間も一緒にやってきた僕がカンボジアで授業を続けることを「納得したい」と話を聞こうとしてくれていました。

日本に生まれたこと、起業したことも「当たり前ではない」

 

僕自身は、自分の夢も志もさっぱり分からなくて、「どうしよう」と思ったのですが、自分なりに1年かけて、「自分は何者か」「本当は何をしたいのか」を探る旅をしました。

 

3ヵ月に一度くらい帰国した時に、かものはしプロジェクトのマネージャーたちが「青木の話を聞こう」とワークショップを開いてくれて、ファシリテーターも入れてくれて、僕は自分の話を少しずつしていきました。そうするうちに、どんどん自分のルーツと思える部分に近付いていきました。

 

僕はこれまで、夢の話や「こんなふうにやっていきたい」といった話をたくさんしてきたけれど、そう話せることはラッキーだっただけかもしれないと思うようになりました。もう一つは、若い年齢で起業をして、いろいろなものを自分で切り開いてきたと思っていたから「自分が努力したからできた」「自分に能力があったからできた」と思いすぎなんじゃないかとも思うようになりました。

 

「たまたま」だったのではないかと思ったんです。たまたま日本に生まれただけ、といったことを含めて、土台となる環境や条件、タイミングが揃っていたことを無視して、「やりたいことがあればやればいいじゃん」「人生の旅って楽しいよ」と話すことに違和感を持ったんです。「青木さんはいいですよね」と言われても、何も言い返せない。自分がこれまで経験してきたことは、当たり前じゃないと思うようになったんです。

 

自分の奥底にある気持ちに触れる時間を通して、「だから僕は、誰かが自分の人生にワクワクしたり、『こんなことをやってみたい』『こんなことに気づきました』という話を聞きたいんだ。自分自身が癒されるんだ」と気づくようになりました。誰かが人生でワクワクすることに関われると、自分の人生により意味を感じることができる、と。

 

SALASUSUの学校に入ってくれた子たちも、だんだんと似たような変化が見られていくと、僕自身が癒される、だから自分のためにやっている、しかもそれが同時に人のためにもなるのかもしれないと思えるんです。自分のそういった気持ちに気づいた時、「人が少しずつでも変わっていく姿を見るためなら、自分の人生を賭けてもいいと思える」と仲間たちに伝えると、「そういうことだったら応援するわ」と言ってもらえました。あのプロセスがなかったら、独立した後、コロナ禍もあったので、1、2年で心が折れていたと思います。自分の思いを言葉にするまでのあの過程があったから、あきらかに「自分がやりたいことをやらせてもらっています」という気持ちになれました。今もそうだから、多少のピンチくらいでは折れない。

 

あの時、自分一人では見たくない自分の中の暗いところを、みんなで手をつないで降りていったような感覚があります。本当に良かったと思っています。

かものはしプロジェクトと共に人生をつくってきた仲間2人への思い

 

――青木さんが19歳の時、村田早耶香さんと本木恵介さんとかものはしプロジェクトを立ち上げてからいろいろなことがあったと思います。今も強い関係性を感じるのですが、青木さんにとって2人はどういった存在なのでしょうか。

 

本木は、一緒に仕事をする機会がすごく多かったので、ライバルというか切磋琢磨していく感じもありました。自分と比べることがなくなってからは、「本木と俺は違う」と、補い合えるところはすごくあると思います。

 

村田さんは、最初は自分とは異質というか、「こういう考えの人もいるんだな」と思っていました。ただ、今、自分の夢や志を持った状態で村田さんを見ると、自分の想いを20年以上、人に伝え続けている人って半端ないなって改めて思います。

 

僕が19歳の時に3人でかものはしを立ち上げて、そこから20年かけて走ってきて。青春の仲間でもあるし、何かあれば、仕事とか関係なく助け合っています。

工房で働いていた女性たちのその後

 

――工房から教育へ軸をシフトすると決めた時、働く女性たちはどんな反応だったのでしょうか。

 

工房で製造していたお土産品は売れ行きがよかったのですが、コロナ禍でゼロになりました。その時、何か月にわたって46人から半分に人員を減らさなければならなくなって、彼女たちの独立を応援しながら辞めてもらうのですが、メンバーを発表した時もすごくしんどかったです。逆に、「残る」となった人たちが全員泣いていました。スタッフも泣いて、しんどかったですね。みんな「ずっとSALASUSUの工房で働きたい」って言ってくれたので。

 

2008年設立時のSALASUSUの工房。2015年から工房兼学校として稼働し、2023年夏にブランドが終了。2024年1月、カンボジア公教育の実験校として生まれ変わった

2008年設立時のSALASUSUの工房。2015年から工房兼学校として稼働し、2023年夏にブランドが終了。

2024年1月、カンボジア公教育の実験校として生まれ変わった

 

――彼女たちは、現在、どうされているのですか?

 

これまで作り手として工房で働いていた女性たちは250人くらいいて、例えば、卒業してもらう時に仕事や職業訓練校を紹介したり、村で起業するお手伝いをしたりしました。村で暮らしている人たちは、自分で小さなビジネスをいろいろ組み合わせて家族で営むことが多いですね。結婚・出産してまた問題があったりして逃げて帰ってきた人なんかもいますが、みんなたくましく生きています。また、予想外だったのは、起業して、社長が集まる会で偶然会う人もいます。「マジで?うちの工房で読み書きから教えたじゃん」みたいな。自分自身も、15年以上もカンボジアで事業を作ってきたので、いろいろあります。

 

――カンボジアの好きなところは?

 

懐が深いところですね。友だちの話なのですが、僕の好きなエピソードで、友だちが村でご飯を食べようと思って、テーブルが並んでいるところに入って、おばあちゃんに「ご飯をください」って言って、ご飯を食べたらしいんですよ。お会計をしようとしたら、「いらないよ」と言われたらしいです。「どうして?」と聞くと、実は、友だちが食堂だと思って入ったところは、民家だったことがわかったんです。「そんな話ある?」と思うのですが、カンボジアにいると、「それはあるね」となるんですよ。だから、僕たちのような団体が公教育に関わることをある意味許してくれることも、懐の深いところだなあといつも思っていて。あと、家族をすごく大事にします。

リーダーとしてのあるべき姿に縛られていた自分からの脱皮

 

――青木さんは、まっすぐな言葉が印象的で、諦めないという気持ちを強くお持ちのように感じます。今のようになるきっかけはあったのでしょうか。

 

昔はもうちょっとかっこつけていたんです。というより、「かっこつけてないといけない」と思っていました。でも、35歳の頃にカンボジアで独立することを決めた時、かっこつけていたら、結局、自分一人で抱え込んでしまって、みんなに心配をかけたことがあるんです。

 

そうしたら、仲間たちに叱られて、「どうした!?」と事情を聴いてくれて。「実は、自信があるふりをしていた」と話したんです。人事とか財務とかできもしないのに自分で担っていたし。「自信があります」「戦略があります」と言わないと、かものはしから独立する時にみんながついてきてくれないと思ったから。

 

でも、仲間たちから叱られた時、「僕が一番不安です。全然自信がないんです」と自分の気持ちを打ち明けました。話し終わった後、「これで終わったな」と思ったのですが……。「イケてるリーダーは、こういった時にはビジョンや戦略を鼓舞するものだ」と思い込んでいたので。

 

 

そうしたら、みんなの反応が予想外で、「どうしてもっと早く言ってくれなかったんですか!」とたくさん気遣ってくれました。「逆に僕たちも頼りすぎていました」と。その時、自分が「できる」と言うことで、ほかのメンバーの能力が発揮される場を奪っていたかもしれないとも気づいて、「めちゃくちゃで凸凹です」と正直に話した方がいいと学びました。「そのほうが自分も楽しい」とわかって、以来、できないことは「できません」と言って、まわりに頼っています。

 

これからも公教育改革の長い旅だとはおもいますが、仲間と共に楽しく歩んでいきたいと思います。

 

写真提供:青木健太

 

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たかなし まき

たかなし まき

1971年愛媛県生まれ。松山東雲短期大学英文科卒業後、地元の企業に就職。その後上京し、業界新聞社、編集プロダクション、美容出版社を経てフリーランスへ。いろいろな人と関わりながら新しい発見をすること、わくわくすること、伝えることが好き。

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