近年、シンガポールでは若者や子どもたちのメンタルヘルスが重大な社会的関心の一つになっています。
シンガポールといえば、一人当たりGDPが日本よりも高い、物価が高い、アジアのハブ機能など、経済発展を遂げたイメージがあるのでは。一方で温暖な南国なので、のんびりとした明るい雰囲気を想像するかもしれません。
経済的にも安定し、気候もよいシンガポール。暮らしている国民がメンタルヘルスの問題を抱えているとは想像しにくい方も多いのではないでしょうか。
シンガポールの政府機関であるメンタルヘルス機構の調査(2016)によれば、国民の約13.9%がなんらかの精神的疾患を患ったことがあるとのこと。たしかに、民間の調査機関(Value champion)によれば、シンガポールは日本などの先進国に比べれば低い水準です。しかし、罹患者は増加傾向にあり、看過できない状況です。
ただし、この調査は18歳以上の成人を対象としたもの。それ以下の若年層の状況が含まれていません。この実態に目を向けると事態は深刻です。
2018年5月の報道によれば、18歳以下の約18%がうつなどの心の病に犯された経験があるそう。また、若者の自殺予防センター(NPO:SAMARITANS OF SINGAPORE)の報告では、2012年から2013年にかけて、ホットラインへの相談件数は、5歳から9歳までが7件、10歳から19歳までが2366件だったのに対し、2015年から2016年にかけては、それぞれ77件、4563件と倍増しています。
なお、10代の自殺も問題になっています。ここ数年自殺の総件数そのものは、350人から400人程の間で増減を繰り返していますが、特に、2018年には10歳から19歳までの男子の自殺件数が19人と1991年の統計開始以来の最高記録に。自殺は、依然として10歳から29歳の若者の主な死因であり、60%の若者が自殺により亡くなっています(同NPO調べ)。
シンガポールの子どもや若者たちはなぜ心の病をかかえたり、そしてひどい時には自殺を選択したりするのか。そこには、過熱する教育・家庭からのプレッシャーがあると考えます。
筆者は現在シンガポール在住4年目。子どもが通う保育園や小学校で見聞きする教育に関する「常識」に、驚かされることも多いです。今回は、そんなシンガポールの教育の現状と、私が触れた具体的なエピソードをご紹介したいと思います。
この記事を書いた望月 愛子さんのプロフィール
フリーライター。タマサート大学短期留学、早稲田大学大学院アジア太平洋研究科修了後、アビームコンサルティング株式会社を経て、新日本監査法人アドバイザリー部門にてCSR推進・コンプライアンス態勢構築に係るコンサルティング業務に従事。消費財メーカーから大手運輸会社と幅広いクライアントへCSR施策のアドバイスを行うとともに、統合報告に係る新規事業開発も経験。夫の海外転勤に伴い、上海・シンガポールへ移住後、出産を機にライターとしての活動を始動。現在、シンガポールで日本人ワーキングマザーを支援するボランティア組織にて、主に「育児」「ワーキングマザー」「海外生活」に関する記事を執筆中。高校時代から現在に至るまでアジア地域で生活するという貴重な機会に恵まれる。将来、日本とアジアをつなぐ活動を実現するのが目標。
大学進学率は40%以下。将来への不安が教育熱を高めている。
シンガポールには、6つの国立大学に加えて、国立のポリテックという技術専門学校があります。それ以外にも私立で学位を取得できる高等教育機関はありますが、シンガポール人の間で「大学」というのは、上記の“国立大学”を意味することがほとんど。私立大学の認識はあまりありません。
2017年の実績では、国立大学への進学率は約35%。なお、政府は2020年までには定員を引き上げて進学率を40%まで高めたいとしています。
状況は少しずつ変化しているものの、生活者の感覚としは依然として、大学への進学はトップの限られた人だけという雰囲気。優秀でありながら運悪く国立大学に進学できない場合、留学するという人もいます。
シンガポールの大学進学は、日本の大学入試センター試験のように全国で実施する統一の試験の成績順で決まります。国立大学に進学するためには、高校生に該当する期間に受ける試験(全国統一)でよい結果を収めなくてはいけません。
高校で受ける試験で結果を出すには、よい中学校への進学が必要。よい中学に進学するためには、小学校卒業時の試験(PSLE:Primary School Leave Exam) での結果が一定以上でなくてはなりません。
国内の進学が狭き門となっているのは、シンガポール特有の教育システムが一因。ただ、シンガポールにおいて「国立大学への進学」は、その後の社会人人生へも影響を及ぼすと考えられており、多くの親が子どもに対して期待をかけています。
国立大学卒業生とそうではない人の間には、就職率や初任給において、大きな差があります。例えば、2018年に国立大学卒業生が、半年以内にフルタイムの仕事を探すことができた割合は、約78.4%であるのに対し、その他の教育機関の卒業生では、約47.4%。また、初任給も、国立大学卒が3400SGD(約27万円 ※1SGD=78円で換算)であるのに対し、その他の教育機関卒は2650SGD(約21万円)と20%近くの差が出ました。
このように、アジアトップレベルの「国立シンガポール大学」をはじめとする国立大学で教育を受けること=よい就職先(人生)という考え方のもと、子どもたちは小学校のテストから頑張らなくてはいけない──それは、長い道のりであり、狭き門です。
「常によい成績を」というプレッシャーやストレスが子どもの心を蝕みつつあるのです。
休みの日も勉強する中高生たちで図書館は満席
過熱する幼児教育――3歳から始まる教育のプレッシャー
2016年のOECDの調査(15歳を対象とした学力テスト)にシンガポールの子どもたちのプレッシャーが見て取れます。「テストに不安を感じる」と答えた割合は、世界平均で55%であるのに対し、シンガポールは76%。「テストで好成績を取りたい」と思う割合でも、平均60%で、シンガポールは82%と20ポイント以上も上回る結果に。
他にも、「頻繁なからかい」が平均で10.9%、「しかと」では7.2%であるのに対し、シンガポールでは、18.9%、11.9%と平均以上。こうした勉強へのストレスから子どもの心の余裕が奪われ、「いじめ」のような他者への攻撃として現れることもあるようです。
子どもたちが、学校や親からの「教育」のプレッシャーを感じているのにもかかわらず、教育熱は小学校低学年や幼児期から始まっているのが現状です。
シンガポールに暮らすMさんの家庭では、4人の子供がいます。Mさんの第一子は小学校6年生で、試験に向けて対象となる科目全て(英語、算数、理科、中国語)の塾に通っています。小学校4年生の第二子も週3回、小学校1年生の第三子も中国語の塾へ。子どもたちは、毎日勉強に追われ忙しくしており、時にプレッシャーを感じているそう。
やはり、シンガポールでの大学進学を考えると小学校高学年の子どもの教育には熱心にならざるを得ないといいながらも、低学年や未就学の時から教育に意識を高くもつ家庭も少なくないとのこと。
Mさん曰く、「まずは“よい小学校”(成績がよい子が通う学校)にはいることが、よい中学校への近道。小学校卒業時のPSLEのプレッシャーを抑えることができる」続けて、「小学校に入るのに試験はない学区なので、“よい小学校”があるエリアにわざわざ引っ越す人も多いのです。」小学校選びが重要な鍵になっているそう。
実際に、筆者は未就学の子どもをローカルの「保育園(チャイルドケア)」に預けていますが、卒園していった子どもたちの中にも、小学校進学に合わせて引っ越しをした家庭を見聞きしたことがあります。
ほかにも、小学校1年生の子どもがいるAさん。その子どものクラスには、すでに2年生の勉強を家でしている子がいるそう。しかし、学校内での暴力など問題行動を取ることがあるようで、ストレスを感じているのではと心配されています。
教育熱は保育園・幼稚園児に対しても見られます。だいたいどこの保育園・幼稚園でも、3歳くらいから、小学校での勉強に照準を当てて、中国語や英語、算数などの「お勉強」が始まります。さらに、年長や年中ともなると、中国語の簡単な宿題も。小学校に入学してすぐにテストが控えている学校もあるので、特に中国語には力を入れている保育園が多いように思います。
くわえて、「Kumon」や「シチダ式」といった日本でもお馴染みの幼児教室もシンガポールでは人気。前述のMさんの話では、週末を中心に幼児教室へ通う子どもたちが増えているそう。実際、住宅街に隣接するショッピングモールには必ずと言っていいほど幼児教室やバレエ・ピアノなどの教育関連のテナントがありますし、子ども向けのショップや教室が主なテナントだけのショッピングモールも。
早ければ3歳くらいから就職するまで、シンガポールの子どもたちは「教育」のプレッシャーを感じながら生活しているといっても過言ではありません。そして、こうしたプレッシャーが幾重にも重なり合い、思春期を迎えるタイミングで心の病に侵されてしまう子が出てくるのだと思います。
特に、トップスクールと言われる「よい中学校」での生徒たちは、教育のストレスを多く抱えています。子どもの将来を案じて少しでもよい教育をと思う親の気持ちが、実は子どもを追い詰めてしまっている。もしかすると、今日本でも話題になりつつある「教育虐待」に近い状況がシンガポールでも起こっているのかもしれません。
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シンガポールの若者を救うために何ができるのか
シンガポール政府は、加熱する教育方針に対して改革が必要だとの認識があるようです。2018年には、小学校1、2年生のテストは廃止され、ディスカッションや宿題などに置き換えられるなど、実学を意識した方針へシフトしています。
将来的には、PSLEのシステムを見直す可能性もあるかもしれないですが、それにはまだ時間はかかるでしょう。
また、小中学校ではメンタルヘルスの水際対策を強化する動きがあります。その対策の一つが、クラスに「メンタルケア係」を配置するというものです。生徒が担うこの係は、クラスの中に心の病を疑われる子がいた場合、話を聞くなどのケアを担当。また、ケースが深刻そうな場合(表情が暗い、リストカットがあるなど)、先生へ通告。こうして、現場レベルで子ども同士での解決を促すことで、メンタルヘルスが深刻化を防ごうとしています。
政府だけでなく、NPOによる活動ももちろんあります。ホットラインを設けて相談に乗るものや復帰するための取り組みを提供するところなど多岐に渡ります。しかし、未然に心の不安を取り除いたり、ストレスを解消するための取り組みを提供するなど、予防を目的として活動するところはあまり見られません。そもそも、未然に防ぐこと自体が難しいテーマなのだと思います。
シンガポールの子どもたちを心の病から未然に守るためには、親や学校などの周りの環境を整えることが必要でしょう。テストでの結果に一喜一憂する親の顔色を伺う子ども。先生の期待に応えたいと思う子ども。勉強を頑張るのは、周りをがっかりさせたく無いという気持ちが強くなりすぎているからではないでしょうか。
教育は本当に自分のためか。多くの子どもはそのことを見失っているのではないでしょうか。
筆者も子どもの将来を案じて、善かれと思い、ついついあれこれ幼児教室に通わせたりと、熱くなってしまう時期がありました。しかし、子どもが続けられないことに苛立ち、プレッシャーを与えてしまうことも。嫌がる子どもを見ながら、誰のための教育なのかと反省をしました。
親が子どもに熱を入れしまう気持ちは痛いほどわかるけれど、シンガポールの親たちも学歴だけが生きる道ではないと意識することが、子どもたちの心を解放するのにつながるのではと思います。親自身も競争の激しい時代に仕事を得るのは簡単なことではなく、余裕が無いときもあるでしょう。
しかし、「自分のようにはなってほしくない」と過度な期待をかけるのではなく、子どもの前では大きな心で見守るよう努めることが大切なのではないでしょうか。
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