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「ササニシキの産地を守りたい」。石巻市の無農薬コメ農家【田伝むし】が「ササニシキ寿司プロジェクト」を始めた理由

2017.10.02 

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今年もまた、実りの季節がやってきた。

 

稲穂が首を垂れ始め、黄金色に変わっていく田んぼ。この眺めに日本の「原風景」を感じる人は、まだ多いだろう。が、この美しい風景をいつまでも残したいという率直な思いと、食料品の値段は安いほどうれしいという消費者としての本音は、残念ながら今の日本において両立が難しい。

 

これからも農業が「食べていける仕事」であり続けるためには、農家自身が価格決定権を握ること。――宮城県石巻市で無農薬ササニシキを生産する農業生産法人(株)田伝むしの木村純さんは言う。そのため木村さんは、品質にこだわり抜いたコメを作り、その違いがわかる個人・法人を相手に直接販路を開拓してきた。いまでは契約栽培が7割、田伝むしファンとも言うべき個人客が3割を占める。木村さんのササニシキにかける想いは、これまでにも多くのメディアで紹介されてきた。

 

しかし、それでも木村さんは、農業だけで展開することの限界を感じているという。そして今、一コメ農家の枠を超えた新たな一歩を踏み出そうとしているのだ。その名も「ササニシキ寿司プロジェクト」

 

9月下旬、石巻市和渕にある田伝むし事務所を訪ねて、その詳細を伺った。

 

>>(株)田伝むしでは現在、プロジェクト・マネジャーを募集しています。詳細はこちらから。

 

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希少品種となったササニシキ

 

訪れたのは台風18号が日本を縦断した直後だった。それでなくても今夏は日照時間が少なく、冷害が心配されていたところである。翌月の収穫を控えて大丈夫でしたか、と尋ねると、「こういう天候は想定内です。うちのササニシキは毎年、種の段階からスパルタで育ててますので、信頼しています」という答えが返ってきた。

 

そう、木村さんは稲を「信頼している」と言った。

 

「農業って、肌で感じとることが大事なんですよ。その肌感覚はデジタル化できないし、それをなくしたら農家じゃなくなる。ぜんぶ機械化・自動化して済むなら、土木業者でもできます。稲の根っこの張り方は土の下で見えないでしょ。でもうちは、種の段階からそれを想像して育てます。だから台風が来ても、うちの稲は倒れないって信頼できる。でなければ、台風が来るたびにハラハラしますよね。天候不順である程度減収はやむを得ないとしても、下げ止まりが予想できるんです」

 

(田伝むしの農薬不使用栽培方法の詳細はこちら)

 

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その木村さんの稲は、1963年に宮城県で誕生したササニシキという品種である。昭和生まれの人なら、子どもの頃おコメといえばコシヒカリかササニシキだったはずだ。それほどメジャーな存在だったのが、いつの間にか店頭から姿を消した。日本古来のうるち米の系統であるササニシキは、低温にも高温にも弱い。「ストライクゾーンが狭い」(木村さん)ため、栽培が難しいと言われる。冷害が続いた80年代を経て次々にコメの新種開発が進み、1993年の「平成の大冷害」が決定打となって、ササニシキの作付面積は激減したのだ。いまでは、全国の0.2%まで落ち込んでいる。(公益社団法人 米穀安定供給確保支援機構「平成27年産 水稲の品種別作付動向について」)

 

その中でもササニシキを守り続け、生産量全国一を誇っているのが石巻市だ。特に、木村さんの水田がある桃生・河南地域は「農家の4割がササニシキを生産し続けてきたササニシキの里。海からの風と北上川の恩恵を受けた気候風土が栽培に適している」という。(田伝むしホームページより)

 

ササニシキが衰退した理由は、育てにくさだけではなく、消費者の嗜好の変化も影響しているらしい。現代に好まれるのは、ササニシキのようなあっさりしたうるち米ではなく、コシヒカリのようなもっちりと甘いモチ米系なのだ。

 

「ササニシキは、いまの世間でいう『食味のいい』コメには該当しないんです。食味コンテストでは、たとえば『粘り』という項目の比重が高いんですけど、コシヒカリが満点ならササニシキは5点くらいかな(笑)」

 

たしかに、白米だけで食べて完成度を競うコンテストなら、そういう結果になるのだろう。が、実際の食卓では普通、白米はおかずと一緒に食べるものだ。おかずをおいしく食べるなら、甘味が少なくあっさりして消化もよいササニシキの方が、本当は適しているのだと木村さんは言う。

 

寿司を通してササニシキの復権を

 

「おかず」とのコメとの絶妙なマッチングで完成する料理、と言えば、その最たるものが「寿司」だろう。寿司屋にとって、シャリはネタと同等、あるいはそれ以上にこだわる食材である。その寿司屋で伝統的に好んで使われてきたのが、ササニシキなのだ。

 

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木村さん自身にも、寿司屋の顧客はいる。しかし、全国でササニシキを作る農家が減ったため安定して仕入れることができず、やむなく他の品種に切り替えた店も多いのではないか――。木村さんはここに可能性を見出している。

 

「大学生のインターンに、宮城県内の寿司屋を回ってリサーチしてもらったんです。県内400~500店のうち、150店からデータを集めたところ、その95%がササニシキを使っていました。でも残りの5%は、取引している米屋からササニシキはもう入手できないと言われて仕方なく変えた、というのです。ササニシキ発祥の地である宮城県がそうなら、東京や大阪の寿司屋では20年くらい前にそういう現象が起きていたのではないか?だから、寿司飯としてのササニシキの潜在需要はまだまだ掘り起こせるんじゃないか?と」

 

しかし、寿司屋向けの販路を拡大するだけなら、これまで通り(株)田伝むしとして自分のコメを営業すればいいはずだ。なぜ「ササニシキ寿司プロジェクト」なるものを立ち上げ、地域おこし協力隊の制度を利用してそのプロジェクト・マネジャーの募集まで行っているのか。

 

木村さんが目指すのは、「ササニシキの産地を守る」ことなのである。

 

だれがコメの価格を決めるのか

 

産地を守るとは、産業を持続可能な状態に保つこと。すなわち、生産者が十分に生活でき、次々と後継者が生まれる環境を作らなければならない。しかし、コメを含めた農産物の価格は低迷し、農業は儲かるどころか食べていける仕事としても厳しくなりつつある。その結果、農業従事者が減り、全国で耕作放棄地が増えているのは周知のとおりだ。

 

「農産物の値段が安いのは、農家に価格決定権がないからです」(木村さん)

 

 

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かつて国の統制下にあったコメの流通は、段階的に自由化が進んできた。1969年に自主流通米制度が導入され、1995年には食管法が廃止。2004年の改正食糧法施行で完全自由化され、農家は全国農業協同組合連合会(全農)などの指定法人を通さずとも、コメを自由に売ることができるようになった。

 

しかし、農協の集荷率は現在でも全国平均で53%に上っている(一般社団法人 農協協会「2017年 JAの米実態調査」より)。独自に商圏をまとめられるコメ問屋が少なく、直販所も少ない石巻の場合、この数字は約9割に跳ね上がる(JAいしのまき広報誌まごころ2016年1月行より)。これまでどおり農協に託せば、農家は自ら営業努力をしなくてよいが、かわりに価格決定権も持たない。木村さんは、そうした生産者側の課題も指摘する。

 

「自分で営業しなくて済めば楽ですよ。ただ、多くの生産者がそれで市場のニーズやトレンドに鈍感になってしまったことも事実。ササニシキ衰退の背景には、それもあると思います」

 

木村さん自身は前述のとおり、生産したオーガニック・ササニシキの全量をエンドユーザ―に直接販売している。つまり、自ら価格決定をしているのだ。では、みんなが農協を離れて木村さんのように直販をやればよいのか、というと、そう簡単な話でもない。

専門問屋を作ってササニシキをブランディング

 

ここで改めて、「ササニシキ寿司プロジェクト」を構想するきっかけとなった、「農業だけで展開する限界」とはどういうことなのか、聞いてみよう。

 

「私が家業を継ぐ形で帰農したのは12年前です。以来、徹底して品質にこだわり、直販にこだわることで、たしかに一定の価格主導権を持ってやってきました。で、その結果、今の状態はどうかというと、やっぱりそんなに余裕のある生活はできないんです。直販の内訳は契約栽培が7割。つまり相場価格であり、個人向けよりは安くなります。だからといって全部を個人向け直販にすれば、コストがかさんで経営が成り立ちません。お客様としっかり繋がって、顔の見える商売をしたいけれど、人手を増やせば利益、つまり所得が減る。所得を上げるには量を追求しなければならず、農家はみな、そこで堂々巡りになるのです」

 

どうしたらその堂々めぐりの限界をブレイクスルーできるか。木村さんはそのアイデアを、既にいくつか持っているという。

 

そのひとつが、志のある農家と共同で農協に代わる「ササニシキ専門問屋」の機能を作り、「寿司」をキーワードにしたササニシキのブランディングを通して、高価格帯での価格決定イニシアティブを確立することなのだそれが、「ササニシキ寿司プロジェクト」であり、いま募集中のプロジェクト・マネジャーは、その意味ではササニシキのブランド・マネジャーとも言える。

 

切り口として「寿司」を考えたのは、上述のとおり寿司業界におけるササニシキの潜在需要を見越してのことだが、それだけではない。

 

「石巻市の東に広がる三陸・金華山沖は、ノルウェー沖、カナダ・ニューファンドランド島沖と並ぶ世界三大漁場のひとつで、豊富な海の幸に恵まれています。海苔をとっても、隣の東松島には皇室献上海苔に選ばれる生産者がいるほどの品質を誇ります。さらには、地元の酒蔵が寿司に合わせるために作った日本酒もあります。そしてシャリに最適のササニシキの生産は日本一。石巻を『寿司の聖地』にするには、最高の材料がそろっているのです」

 

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三陸沖の真穴子も有名だ

ブランディング施策の具体案は既にある。たとえば都市圏の寿司職人や寿司好きの消費者を対象に、そうした素材の生産者をめぐるツアーを開催する、寿司職人の養成機関でササニシキの味を知ってもらう講座を実施する、いずれは石巻で寿司職人養成アカデミーを開講する、…等々。プロジェクト・マネジャーには、こうした企画を具体化し、さらに独自の発想で高級寿司米としてのササニシキ・ブランドを確立することが期待されている。

誇りとこだわりを持った農家と協働する

 

こうしたブランディング活動と並び、「ササニシキ寿司プロジェクト」の「問屋機能」としての主要業務は、複数の農家から高品質のコメを集めて、高級寿司店を中心とした販路を開拓することだ。もちろん、都市部で行われる展示会への出展なども含まれる。

 

「産地を守る」ことが究極の目標であれば、このプロジェクトに参加する農家は多ければ多い方がよさそうだ。が、木村さんはどんな農家とも一緒にやろうとは考えていない。同じようなこだわりを持った石巻市内のササニシキ生産者、当初は5軒程度を想定しており、既に意中の農家はいるという。

 

「まず、その5軒で生産共同組合のような任意団体を作って、その事務局を当面(株)田伝むしの中に置くというイメージです。問屋としてその5軒のコメの販売代行をするわけですが、代行してくれるからといって全部お任せの農家はダメ。彼ら自身でも寿司屋に営業に行って、『自分はこういう思いでコメを作っている』ということをきちんとアピールできる、そんな行動力のある農家と組みたいですね」

 

販売が軌道に乗れば、将来その任意団体は(株)田伝むしとは別の会社として独立できる可能性もある。その事務局、つまりプロジェクト・マネジャーは地域おこし協力隊として募集しており、任期は3年だ。その間に自走できる体制を確立できれば、4年目以降そのまま会社を引き継ぐことも考えられる。

 

高品質のササニシキを作る少数の農家が共同で、その品質を求めるハイエンドなユーザ―に直接、その品質に見合った価格で売る――。このプロジェクトが成功すれば、旧態から抜け出せない他の農家の意識改革につながる可能性もある。

木村さんが信頼する稲。他の水田より間隔が広く、株は太くてしっかりしている

木村さんが信頼する稲。他の水田より間隔が広く、株は太くてしっかりしている

 

木村さんは、一緒に取り組む生産者の条件として、必ずしも「有機無農薬」に限定しているわけではない。しかし、「生き物に対する深い思いを持っている農家」でなければ、心意気は通じないという。この生産共同組合は、農協や普通のコメ問屋のように集めたコメをブレンドすることはない。あくまでも、生産者の顔とその「作品」であるコメが1対1でわかる形で営業し、よい意味での競争を促す。農家の「いいコメを作ろう」という意識を維持するには、それが絶対条件だというのだ。木村さんはそれを「武士にとっての刀」と表現する。

 

「『農業』と一括りにされますが、みな考え方は違います。手作業で作ったものの良さ、みんなで喜びながら作ったもののおいしさ。そういう数字に表せないものを大事にしないと、世の中はおかしな方向に進んでいく。そういうことがわかっている農家が増えなければ」

 

消費者である私たちが食べているものは、そうした農家の「誇り」なのだ。

 

産地を守ることは、日本の原風景を守ること

 

取材の前、「木村さんは職人だから(気難しいところがあるよ)」と聞かされていたこともあり、昔気質の、言葉数ない男性を想像していたのだが、実際にお会いしてみると非常に滑らかなトークで驚いた。それもそのはず、木村さんは12年前、36歳で家業を継ぐまでは、有名な水産加工会社で営業をしていたという。

 

「子どもの頃からあまり農作業を手伝った記憶はないんですよ。父は1987年に無農薬に切り替えましたが、それに気づいたのも後になってからです(笑)。お前が継ぐんだと言われて育ち、反発もあったんでしょうね。一度は家を離れました。それでも心の隅で『いずれは帰らなければ』と思っていましたが、なかなか踏ん切りがつかなくて」

 

その背中を押したのは、奥様だった。「自然栽培、無農薬栽培で育てられたものを子供たちに食べさせたい。そういう環境で子供たちを育てたい」という奥様の言葉で、帰ることを決めたのが2005年のこと。5年後の2010年には農業生産法人(株)田伝むしを設立した。「田んぼの豊かさを伝えたい」という思いが込められたこの社名も、奥様のアイデアだという。

 

現在の作付け面積は11.5ヘクタール。奥様と2人のフルタイムスタッフ、あわせて4人で管理している。慣行栽培では、この地域の平均的な反収(1反=約10アールあたりの収量)は10俵程度なのに対し、木村さんの栽培方法では6~7俵にとどまる。また、いまどき苗は農協から毎年購入するのが当たり前なのに、木村さんは種籾も自家採種している。そうして作った自慢のササニシキは、独自の販売ルートを開拓してきた。「この辺ではいまだに変わり者扱いされていますよ」と木村さんは笑う。

 

田伝むしでは数々の加工品も委託生産し、販売している

田伝むしでは数々の加工品も委託生産し、販売している

 

しかし、周囲の農家は次々と後継者不足に直面している。農政が大きな転換点を迎える2018年度以降は、さらに多くの倒産者が出るだろうと、木村さんは危惧する。自分を守るだけではなく、「ササニシキ産地を守らなければ」という危機感が、今回の「ササニシキ寿司プロジェクト」を生んだのだ。

 

そのプロジェクト・マネジャーに求められるものはなにか。木村さんのような営業経験や一定のマーケティング・スキルは当然として、おそらくそれだけでは十分ではないだろう。

 

このプロジェクトの成否でササニシキ農家の将来が決まる、とも言えます。そこに意義を感じる方に来てほしい」

 

「産地を守る」とは、すなわち、多くの日本人が心から残したいと感じる美しい田園風景を守ることでもある。木村さんの心意気に通じる挑戦者の出現に期待したい。

 

>>(株)田伝むしでは現在、プロジェクト・マネジャーを募集しています。詳細はこちらから。

 

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この記事を書いたユーザー
中川 雅美(良文工房)

中川 雅美(良文工房)

福島市を拠点とするフリーのライター/コピーライター/広報アドバイザー/翻訳者。神奈川県出身。外資系企業で20年以上、翻訳・編集・広報・コーポレートブランディングの仕事に携わった後、2014~2017年、復興庁派遣職員として福島県浪江町役場にて広報支援。2017年4月よりフリーランス。企業などのオウンドメディア向けテキストコミュニケーションを中心に、「伝わる文章づくり」を追求。 ▷サイト「良文工房」https://ryobunkobo.com

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