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起業家として、政治家として。復興“最後発”、福島県双葉町にIターンした山根辰洋さんの選択

2022.08.22 

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▲双葉町の双葉産業交流センター屋上にて。背景は建設中の復興祈念公園

 

「一人で立候補することを決めて、孤軍奮闘でいいと思っていましたが、実際に立ってみたらみなさんががんばれよと応援してくれて、本当に幸せだなと……」

 

ビデオのなかの山根辰洋(やまね・たつひろ)さんは、そういって言葉を詰まらせた。2021年1月14日、福島県双葉町議会選挙の告示日。JR双葉駅前での街頭演説の一コマだ。

 

双葉町は、2011年3月11日の福島第一原発(イチエフ)事故で強制避難を経験した12市町村のうち、本稿執筆現在で町民の帰還が始まっていない唯一の自治体である。役場機能は60キロ南のいわき市にあり、住民登録のある約5,600人のうち4割近くが同市に住む。他の町民は福島県内各地はじめ、全国に散らばって避難生活を続けている。2020年3月のJR常磐線再開通に伴って双葉駅周辺は立入りが自由化されたものの、住民はゼロだ。

 

告示日の山根さんの演説も、現地で聞いていたのは知人の2人だけだったという。それでも第一声の場にここを選んだのは、ヨソモノだった山根さんにとって「この町で生きる」という決意の表明でもあった。

 

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▲山根さんの第一声。背景は以前の双葉駅舎。時計の針はあのときのままだ

 

筆者は、東京都出身の山根さんが震災後に双葉町役場の復興支援員となり、情報発信に尽力したことや、任期後も福島に残り、後に会社を立ち上げて観光を軸に地域再生を目指していることは知っていた。筆者も同じ復興支援の文脈で福島へ来た者として、被災地の中でも双葉町というかなり“特殊”な場所をフィールドとする山根さんに尊敬の念を抱いてはいたが、「移住起業」自体はさほどめずらしくないという認識だった。

 

しかし、その山根さんが町の議員になったと聞いて驚いた。まったく別次元の挑戦と感じたからだ。「僕には後援会も何もない、総スカンでもおかしくなかった」という選挙だったが、フタを開ければ立候補者9人中4番目に多い得票数を集めて当選。以来、最年少町議(当選時35歳)として精力的に活動している。

 

起業家として政治家として、二つの側面から地域の未来へコミットする山根さんに、あらためてその意図と覚悟を聞いた。

支援者から当事者へ。アイデンティティが変化した

 

「僕は2013年、27歳のとき『支援者』として福島に来ました。双葉町役場の復興支援員は3年間の期限付き。その間に自分の持てるものを全部現地に落として終わり、のつもりだったんです。だから、積極的に前に出ようとかネットワークを広げようとか、一切考えていなかった」

 

その山根さんが双葉町で会社を興し、人前に出ることが仕事ともいえる議員になるまでには、どんな転機があったのだろう。

 

まず前提として、当初「帰れない」と言われた双葉町に帰れる可能性が出てきたのは大きかった。イチエフの5、6号機が立地する双葉町は、町土のほとんどが「帰還困難区域」。放射線量が高く除染すらされない、有体にいえば「帰るのは諦めろ」と宣言された土地だった。だが2016年秋、その区域の中に、除染して5年をめどに避難指示解除を目指す「復興拠点」を設けるという、国の方針の大転換があったのだ。

 

また、復興支援員としての仕事上でも考え方の変化があった。山根さんは情報発信担当として、バラバラになった双葉町民をつなぐコミュニティ広報誌を立ち上げ、町民へのタブレット端末配布・導入を支援し、そのコンテンツづくりに注力してきた。前職での映像制作のスキルは大いに役立った。だが、当初考えていたように、そのノウハウを3年のうちに役場へ完全移植するのは難しいとわかってきたのだ。そこで山根さんは、自分が残る選択肢を検討し始める。そして任期終了と同時に、町から情報発信業務を受託するいわき市の企業へ転職を決めたのだった。

 

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▲復興支援員時代、こうした各地の双葉町民のコミュニティに足しげく通いながら町との絆を深めていった

 

だが、最大の転機はやはり、双葉町出身の妻、光保子(みほこ)さんとの出会いだろう。光保子さんも同じ復興支援員仲間で、故郷への帰還を強く望んでいた。山根さん自身も町民と日々接するうち、町への愛着が増していた。実は当時の山根さんの姓は小林。2016年9月、転職の半年後に入籍したとき、苗字を変えたのは辰洋さんのほうだった。

 

「抵抗はまったくなかったですね。小林=支援者、山根=当事者。僕はここで生きる、と決めて苗字を変えてから少しずつアイデンティティが切り替わった。以前は常に一歩引いて周囲に壁をつくっていたけど、名前を変えたら自分の個で勝負する意識になりました。だから、山根になった後の人生の方がめっちゃ濃いし、『確からしい』感覚があります」

 

「ここで生きることを決めた」。そう言える勇気を持った人は世の中にどれくらいいるだろう。そんな疑問にも山根さんはさらりと答える。

 

「そう決めたら却って楽になったところもありますよ。『支援』だと1年間できることをやって後は知りません、になってしまうこともあるけれど、いまなら30年単位で物事を考えられる」

「公共と民間、ハイブリッドの顔を持つ人の存在は必ず地域のためになる」

 

山根さんの転職先、一般社団法人ONE福島は双葉町・大熊町から復興支援員制度を活用した情報発信業務を受託していた。山根さんはそこで支援員11名の研修やマネジメント業務に携わりながら、「帰れるようになった後の双葉町で生業をつくる」イメージを描いていく。その軸が「観光」だった。

 

「この地域に人の流れを作ることが絶対に必要だと思っていましたから」

 

それでも2019年5月に独立したときは、まだ起業するイメージはなかった。映像制作の仕事や個人のガイドツアーなど、フリーランスでなんとかなると思っていたそうだ。

 

それが、半年後に一般社団法人双葉郡地域観光研究協会(通称:F-ATRAs)を創業。さらにその1年後には双葉町議会選挙に立候補と、山根さんの人生は大きく展開する。いずれも、ある人から受けた影響が大きいという。ある人とは、山根さんが「僕の師匠でありロールモデル」というONE福島の理事、元都議の寺山智雄氏だ。

 

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▲ONE福島を退職し、独立すると決めたとき。寺山智雄氏と

 

「交通遺児だった寺山さんは、あしなが奨学金で進学。学生時代から社会運動やボランティア活動、政治にも関わってきた方です。1993年から都議を2期、その後は盲導犬協会理事などを務め、現在は少年院での矯正教育事業やこどもの貧困問題などに取り組んでおられます。僕は福島に来るまで社会課題解決とかソーシャルビジネスとかまったく関心がありませんでした。いわゆる意識高い系は苦手で(笑)。でも寺山さんと出会って、世の中にはこういう働き方があるんだ、社会の中枢にいるってこういうことか、と教わったのです」

 

双葉町で観光を通じた生業を作りたい、という山根さんに対して寺山氏は、それなら会社を作っておいた方がいい、そして、ここで生きることを決めたのなら議員になることも考えたらどうか、とアドバイスしてくれたのだった。

 

「もちろん会社経営しながら議員をやるには制約もあります。でも公共と民間、ハイブリッドの顔を持つ人の存在は必ず地域のためになる、私利私欲にとらわれず地域を一つの社会として見られる人が政治家をやるべきだ、寺山さんからは常にそう聞かされてきました。僕は純粋に、家族で双葉町に暮らしたい。この地域のためならなんでもやる覚悟はある。それで立候補を考え始めて周囲の意見を聞いたら、否定的なことを言う人は誰もいませんでした」

 

もちろん妻にも相談した。が、最後は一人で決めた。双葉の未来に向けて自分にできることがあると信じたからだ。いわゆる地盤・看板・カバンどれも無い。そのぶん忖度する相手もいない。あるのは、「地域のためになる仕事をさせてくれ」という気持ちだけ。そんな山根さんに「がんばれよ」という声が集まってきた。「みんなこれまでの自分を見ていてくれた」――。立候補第一声の途中で、思わず感極まった。

 

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▲生まれて初めてタスキをかけたときは「恥ずかしかった」と振り返る。

自身の住むいわき市勿来(なこそ)の復興公営住宅団地での街頭演説にて

 

政治家として言論を残し、起業家として事業実績をつくる

 

今回山根さんに取材したのは7月中旬である。会社立ち上げ3年目、議員になって2年目。二足の草鞋も履き慣れてきただろう頃だ。

 

まず、2019年11月創業のF-ATRAsの業況を聞いた。当初インバウンド観光をメイン事業に据えるも、まもなくコロナ禍という想定外。それでも、復興庁事業を通した旅行情報大手企業との接続や、副業・兼業で山根さんを支える域内外多数の協力者のおかげで、現地/オンラインツアーの企画実施、大学の研修受託、情報発信サイト運営、など実績を積み重ねているという。

 

「2年目に観光庁の予算で町民を集めた観光会議を開き、そこでの議論を母体に観光コンテンツを作る、という事業をやりました。なぜここで観光なのか、理由をまず地域の人に知ってもらうためです。成果としてオンラインツアーを実施し、情報誌も制作。そのプロセスでは単に町民から意見をもらうだけでなく、実際に語り部として参加してもらう、など連携を意識しました」

 

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▲F-ATRAsの国際色豊かな大学生インターンチームが企画・運営した1泊2日のツアー「パレットキャンプ福島」。

背景はFutaba Art Districtプロジェクトで町内の店舗外壁に描かれたアート

 

現状ではF-ATRAsの実績の大半がこうした国の予算を使った観光事業だ。「本来、それでは『産業』にならない」という課題感を持つ山根さん。「消費者や企業から対価をもらって地域内で利益循環する仕組み」づくりに向けて、会社の立ち位置を見直す時期に来ていると表情を引き締める。

 

では、議員の仕事の方はどうだろう。年4回の定例議会のほか、双葉広域圏議会の定例会、山根さんが委員長を務める産業厚生委員会や議会報編集委員会の会合など、1年半で一通りのことは経験したはずだ。

 

「やってみて、議員にできることは意外に少ないとわかった。究極を言えば、議員の仕事は議決することと質問すること、この2つしかない」

 

だからガッカリしたという意味ではもちろんない。山根さんは続ける。

 

「ただ議会の日程をこなすだけなら、できることは少ないということ。でも、役場から提出される議案の内容をちゃんと勉強していれば、議会で的確な『突っ込み』を入れることができます。そして、質問という形で言うべきことを言っておくのはとても大事。ぜんぶ議事録に残りますから。その積み重ねが爪痕となって地域に残り、後からそれを引き出してくれる人につながっていくのです。たとえば中間貯蔵施設やイチエフの処理水の問題も、過去の議員が積み重ねた議論の記録があります。そこでどんなやり取りがあり、どんな交渉を引き出したのか。僕らはそれらを踏まえて次に進むことができる」

 

だから、山根さんはこれまでの議会で欠かさず質問に立ってきた。

 

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▲定例議会で一般質問に立つ山根さん。日本の地方自治は、いずれも選挙で選ばれる首長と議会とによる二元代表制。

公開の議場は対等な立場の両者が文字通り向き合う場だ

 

その双葉町では、帰還困難区域のうち町中心部の「復興拠点」5.6平方キロの除染が完了し、今年8月30日午前0時、とうとう避難指示の解除が決まった。1年半前、山根さんがビデオカメラに向かって演説した双葉駅前には、いまでは町役場の新庁舎が完成し、8月27日の開庁式、9月5日の業務開始が決まっている。

 

ただ、これで自動的に住民が戻ってくるわけでは当然ない。直近の意向調査では、双葉町に「戻りたいと考えている(将来的な希望も含む)」との回答は11%にとどまり、「戻らないと決めている」は6割を超えた。人が戻らないところにお金をかけてどうするのか――。そういう声が聞こえるのも確かだ。

 

「資本主義のゲームで考えれば、ここに投資してリターンが見込めるかどうか正直わかりません。そもそも除染はマイナスからゼロにする作業であって投資ではない。ゼロに戻したあとの世界で僕らはがんばります、どんな価値を生み出せるかわからないけど挑戦します、としか言えないんです。ただ、この経験から紡ぎ出す価値は社会全体にとって大きな意義を持つはず、という感覚はある。これからそこをもっと言語化していきたい」

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▲双葉町内に2020年開館した福島県の施設、東日本大震災・原子力災害伝承館。教訓と学びを伝える

 

すべては愛する双葉のために。いよいよ帰還開始後の新ステージへ

 

筆者の身近には議員をしている人がいない。今回山根さんに取材を依頼したのは、地方議員、なかでもなり手不足といわれる町村議員という生き方を、敢えて選んだ動機を知りたかったからだ。その前提に、政治家とは「特殊な仕事」という先入観、口利きだの利権だの含めて若干ギラギラしたイメージがあったことは否定しない。だが、議員2年生の山根さんはそういうギラギラとは対極の人だった。

 

インタビューのなかで特に印象に残ったフレーズがある。それは、「僕はパンダになる」。

 

パンダになって注目を集め、情報発信することで外のリソースを呼び込む。それをカスタマイズして地域に落とし込む。最後は「あそこに相談すれば形にしてくれる」とみんなから認識される「公共物」としての存在を目指すというのだ。そこには、被災地というチャレンジングな場所だからこその覚悟も加わる。

 

「この地域を再生するんだ!と世の中へ発信するパンダは必要。でも、パンダは叩かれます。こんなにお金をかけるのか、などと。被災を経験した地元の方々はこれまでたくさんの偏見と闘ってきた。その人たちが前に出たらまた叩かれてしまう。だったら、元ヨソモノの自分がサンドバッグになろうと。僕は叩かれても全然平気だから」

 

飄々とそんなことを言ってのける山根さんに、こちらは清々しい気持ちになってくる。

 

「一方、これからは地域に対して『説得』というコミュニケーションも大事になると思います。この難しい環境で解を持つのは怖いこと。でも、ここでは正解なんてわからなくてもとりあえず『確からしい』解を持ち、それに向かって進んでいくしかないんです。たとえば観光を双葉町の産業にする、というのもひとつの解。失敗するかもしれないし直接恩恵を受けない人からは攻撃もされる。それでもやり切れるかどうか。解=意志を持ち、大きな絵を描いて地域の人たちが担う役割をていねいに説明し、説得していく。それも政治家としての僕の仕事だと思う」

 

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▲町内に立地するイチエフでは数十年かかるという廃炉が進行中。イチエフの外を囲むように建設された「中間貯蔵施設」には、福島県中から除染廃棄物が運び込まれ、2045年まで保管することになっている

 

議員としての山根さんはいま、「誰にとっても幸せになれる双葉町を目指す」というポリシーを掲げる。その根っこはとてもシンプルだ。

 

「ここで家族と暮らすと考えたら、周りに『社会』がなかったら困るかなって。構成員一人ひとりの役割・居場所があるのが『コミュニティ』であり幸せな社会だと思うんです。震災前、双葉町に住む7千人全員にそれぞれ役割があったはず。そのすべては無理でも少しずつ取り戻していきたい。役割があれば人は地域に必ず残りますから」

 

起業家として、政治家として。どちらの顔も「地域のために」という一点を支えにこれからますます磨かれていくのだろう。

 

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▲2017年、長女誕生。本稿掲載のころには三児の父に

 

双葉町の夜に11年半ぶりの明かりが灯り始めるのは、もうまもなくだ。故郷への帰還を夢見てきた光保子さんと3人の子どもたち、それから猫1匹。避難指示解除になったらすぐにでも引っ越したいという山根一家である。あいにくペット可の住宅がすぐに見つけられていないそうだが、そう遠くない日に愛する双葉町での新生活が始まることを祈る。

 

この記事を書いたユーザー
中川 雅美(良文工房)

中川 雅美(良文工房)

福島市を拠点とするフリーのライター/コピーライター/広報アドバイザー/翻訳者。神奈川県出身。外資系企業で20年以上、翻訳・編集・広報・コーポレートブランディングの仕事に携わった後、2014~2017年、復興庁派遣職員として福島県浪江町役場にて広報支援。2017年4月よりフリーランス。企業などのオウンドメディア向けテキストコミュニケーションを中心に、「伝わる文章づくり」を追求。 ▷サイト「良文工房」https://ryobunkobo.com ▷ブログ「東京→福島 移住してフリーランスになった五十路の日々」https://lifeinfukushima.com

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