今でも派遣先地域とのつながりが続いている、3人の右腕OG。座談会後編では、右腕のキャリアを今のお仕事にどう活かしているのか、派遣終了後の今、東北とどのようなつながりを築いてきたのかをお聞きしました。「ふるさとの意味」「地方と東京のありかた」といった興味深いテーマにも話題が及んだ座談会の様子、お届けします。(前編はこちらから)
被災地に入り込んで、大変だったこと
宮本:活動の中で、大変だったことはありましたか? 村井:私は震災後の割と早い時期に右腕として活動していたこともあり、活動開始から2か月くらいは、お寺に住んでいました。とても良いお寺で、住職さんも良い方で、ボランティアの人たちを無償で泊まらせてくださっていました。 ただ、余震でお寺の中が結構揺れたり、お風呂にあまり入れなかったり、カメムシやトンボが入ってきたり、割とサバイバルでした。活動開始直後はボランティアの若者がたくさんいましたが、夏が終わり、だんだん減っていき…秋になると、寒くて寒くて毛布を4?5枚くらい重ねて寝ました。 「ここでは冬を越せないかも」と不安に思い始めた頃、ある方のお宅に居候させて頂けることが決まりました。そこから劇的に生活が変わりましたね。9か月間お世話になり、「13人目の孫みたいだ」と、本当に良くしてもらいました。 当時は大変でしたが、仮設住宅の方にご飯をご馳走になったり、シャワーをお借りしたりと、町の方たちには本当に良くしてもらいました。その経験があるから、今でも南三陸へ帰ると「泊まっていきなよ」と言って下さるお家がたくさんあります。
東北と東京のギャップ
宮本:皆さん、右腕の活動を終えてから、現在は東京で働いていますよね。村井さんは現在の勤務先で働くきっかけは何だったんですか? 村井:今の勤務先・フロンティアジャパン株式会社は木製品を作っている会社で、南三陸町で右腕派遣中に出会いました。東京に戻ってからも南三陸町と関わり続けたいと思っていたので、代表から声をかけて頂き、入社を決めました。 今の私の仕事は、南三陸町をはじめとした国産の杉・ヒノキ等を木を活用したノベルティ商品を企業へ提案する営業なので、私が案件を作れば作るほど、南三陸にお仕事を回すことができるという立場ですし、やりがいもあります。 宮本:東北での生活を終えて東京に戻って、ギャップを感じることってありますか? 村井:私は、新卒で入社した大手の旅行会社が合わないなと思って数十人規模の会社に転職し、復興ダコの会に行き、今も20人くらいの小さな会社にいます。私は昔から「ビジネス通した社会貢献をしたい」という軸が自分の中にあったので、復興ダコの会にたどり着いたのも、今の会社で働いているのも自然な流れだったと思います。私自身ギャップは感じていません。 戸塚さんと橋本さんは、地域の小さな団体から東京の大企業に戻ってのギャップがあるんじゃないですか?それって、いろいろ大変そうですよね。組織の規模が小さいと、物事を自分たちで決められたのではないですか? 橋本:それはありますね。釜石では、普段思っていることを周りの人と共有しやすい環境でした。物事を進めるにも形にしやすかったので、「一定の決められた枠の中でやらなければならない」という企業での環境とは違いました。 戸塚:すぐ隣の席に代表がいましたし、スタッフ3人でいろいろなことを決めていましたね。空気を共有できている安心感はありますよね。
復職後に気づいた、被災地での学び
宮本:戸塚さんは、右腕として入ってみて大変だったことはありますか? 戸塚:私の場合、ストレスはほとんど感じませんでした。大企業の違和感、たとえば、この仕事はどこを目指しているんだろうとか、物事を決めるのに稟議を回して云々とかが、ひとつなぎ自然学校にはなかったので。 一方で、自分に不足していた部分を強く感じました。企業の中にいたときは、自分で決めて進めるというより、決められた枠の中で、決められた営業メニューを売るという意識で仕事をしたことに気づきました。 そうすると、批判精神だけが育ってしまう。批判するだけで自分には他の案が浮かばないし、浮かんだとしても自分でそれを成し遂げられるのかと。そういう部分を突き付けられましたね。 宮本:私も、割と大きな会社から数十人規模の団体に入った時に、自分が「大企業病」のようなマインドを持っていたことに気づきました。「これおかしいんじゃない?」と思ったところで「誰かやってくれないの?」と思ったり、「物事を進めるのにこんなに根回しが必要なの?」と愚痴ったり…(笑) 戸塚さんは、そこから復職してからはどう変わりましたか? 戸塚:「自分に不足していたマインド」を、会社を辞めるという手段ではなく、会社に戻って克服したいと思うようになりました。それまで「会社の駒」のような意識で働いていた事を反省し、意志のある社員として働く心構えができました。
「ふるさと」の意味を考え、「ふるさと」を見つけた1年間
宮本:東京から「地域」に入ってみて、感じたことなどはありますか? 戸塚:私は東京出身で祖父母も近くに住んでいて、「ふるさと」という感覚がないまま生きてきました。自分にとって、生まれ育った街は東京。その東京で、釜石の人たちのような「ふるさとを想う熱量」を持たなきゃいけないのかなと思うこともあって。それが、東京に戻った理由のひとつです。 釜石で「失われたふるさとの宝を取り戻す」「そのためにふるさとの復興やまちづくりを進めていく」という言葉をよく聞いていました。ずっと「ふるさとって何だろう」という問いを突き付けられていたような気がします。 宮本:すごくわかります。右腕の活動中、いろいろな方にお会いする中で、「地元の人が、地元を想い、地元のことを決めていく復興」を目にしました。私の地元は神奈川県藤沢市で、海に近いんです。津波が来たら、どうなってしまうんだろうと思った時に「自分の地元」のことが気になりました。橋本さんは、ご出身はどちらなんですか? 橋本:うちは転勤族だったので、「出身」と聞かれると困ってしまうんです。新潟、東京、埼玉、大阪、兵庫、九州、長野、栃木…いろんな地域に住み、小学校は4つ転校しています。 釜石に居ても、地元の方の「ふるさとを大切に思う心」が最初は全く分からなくて、一年間のうち、半年くらいはずっと「?」でした。そもそも「ふるさと」とか「地域づくり」とか「地域を想う心」という考え方が自分の中になかったので。 理由はそれだけではないですが、活動の先にある「意味」がわからないまま、半年過ぎてしまいました。自分のお家を流されて、それでもその地域に住み続けたいという気持ちもわからなくて、「なんで大変なことがあったのに住み続けたいのだろう」と。 だけど、自分が実際にその地域に住み、地域の人たちと関わり、地元の人たちが自分たちの手で地域をより良くしようと頑張っているのを間近で見ていく中で、言葉では言えないけれど、徐々に「あ、そうか。これが故郷を想う心なのか」と腑に落ちていき、それから団体の活動の先にあるものも徐々に分かるようになりました。活動の中では、外部からこの地域に人が来て活動する意味を、ボランティアさんたちに丁寧に伝えていくことを意識するようになりました。 今、「ふるさと」と聞いて思い浮かべる土地、「どうにかしたい」「役に立ちたい」と思える土地は釜石や東北。私にとってのふるさとができたのかなという想いがあります。
Iターンで、都市と地方のありかたを考える。
宮本:村井さんも、東京出身ですよね? 村井:右腕に行くまでずっと住んでいた港区三田は、私のふるさとで、大好きな場所です。 今まで都市での生活しか知らなかったので、南三陸町での暮らしはとても新鮮でした。 同じ世代で、同じ日本に住んでいるのに、育ってきた環境ひとつで考え方や常識もまるで違うし、「私、なんて日本のことを知らなかったんだろう」と、ドーンと頭を殴られたくらいの衝撃でした。外に出ることで視野が広がったし、都会や自分のふるさとを外から見る良い機会でした。 宮本:会社を辞めようかなと思ったきっかけの一つが、会社員時代にプライベートで行った北海道でのことでした。電車が通っていない地域で、移動は車。「収入が少なくても、家賃は安いし自分で畑をやりながら暮らせるし、豊かだよ」みたいな話を聞いて。 私はずっと関東で育って、大学も勤め先も東京で、東京に5年くらい住んで、そんな中だと、1億3千万みんな同じような暮らしをしているという錯覚に陥っていたんですよね。でもそれって全然違うようねと気づいて、「私は、このままこの生活しか知らなくて良いんだろうか?」と疑問に思ったんです。 村井:都会しか知らなかった人が地方に行って地方の考え方を学ぶことや、地方出身の人が都会に行ってまた地方に戻るというジグザグなキャリアはすごく良いと思います。生まれ育った街以外にふるさとができるもの良いですよね。
今いる地域と東北をつなぐ存在になる
宮本:今は、東北とはどんなつながり方をしていますか? 村井:仕事では2?3か月に1回くらい南三陸に行きますし、プライベートでも行きます。今年の7月からは、南三陸町復興応援大使の任命を受けました。何か決められた仕事があるわけではないけれど、名前に恥じぬよう南三陸町の魅力を発信していければと思います。 プライベートでも、南三陸の方たちが東京に来た時に案内したり、私の結婚式にお世話になった方をお呼びしたり、交流が続いています。そういう双方向の関係性は財産ですよね。人生が豊かになりましたね。 戸塚:社内の有志で成り立っている復興支援団体で活動しています。東北の食材を社食に使ったり、釜石の酒造をお呼びしたイベントを開催したり。また、内定者や社員の希望者を募って被災地でのスタディーツアーのコーディネートをしたり、先日も60人規模の役員研修を釜石・陸前高田で行ったのですが、その際釜石の部分のコーディネートを三陸ひとつなぎ自然学校と一緒に行いました。「そろそろ釜石の空気を吸わなきゃ!」と、プライベートでむこうを訪れることもありますね。月に1度くらい行かないと、心身のバランスが保てないんです。 橋本:私は、会社に戻って半年経つんですが、関わり方を模索している状況です。自分の中では、「今後も東北と関わっていたい」「釜石に居た一年で学び得たものを、仕事や私生活にも活かしたい」という強い想いがあります。 ずっと思っているのは「この地域に、責任を持って関わりたい」ということ。釜石は大好きな場所ですし、ちょっとしたらすぐ行きたくなる場所なんです。そんな自分の特別な地域に、どうしたら責任をもって関われるのか…ビジネスとして地域にお金を落とす仕組みを作ることなのかもしれないし、そうじゃないかもしれない。地域にとって何が必要なのかを理解して、どんな関わりができるのか。悶々と考えながら模索しているところです。 村井:東京と被災地。どっちの「肌感覚」もわかるって、実はすごいことかもしれない。メールでのやり取りひとつでも、東京の人は素早い返信が当たり前でも、地域の人たちはパソコンの前にずっといるわけではないし。東京のルールで物事を進めた時に、地域の人がどう思うか。それがわかるから、双方の間に立つことができると思うんです。誰でもできることではないと思うし、これからのキャリアにも生きるといいなと思っています。
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