日常にあふれる「ふつう」という言葉。一体、どんな意味で使われているのでしょうか。何をもって「ふつう」というのでしょうか。
例えば、子どもの世界からみた時、みんなと同じことができて「ふつう」、みんなと同じように学校に行けることが「ふつう」、みんなと同じようにスマホを持っていることが「ふつう」など、私たちは「ふつう」という一定の基準によってつくられた世界で生きているようにも感じられないでしょうか。
「ふつう」とは何なのか――。
この問いについて、インクルーシブ教育の専門家である野口晃菜(のぐち・あきな)さんにお話を伺いました。多くの教育関係者との取り組みや政策提言などを積極的に行っている野口さんが考える「ふつう」とは?
野口 晃菜(のぐち・あきな)さん
インクルーシブ教育・インクルージョン研究者/博士(障害科学)/一般社団法人UNIVA 理事
ロサンゼルス生まれ。2歳頃に日本に帰国、埼玉県で暮らす。小学6年夏に父親の転勤により家族全員でアメリカ・イリノイ州に引っ越し。高校卒業まで過ごしたアメリカでの7年間で「インクルーシブな社会づくりをしたい」と思うように。
障害のある子どもの教育に関わる仕事を目指し、当時、大学2年から「心身障害学」(現・障害科学)を専攻できる筑波大学に進学。
博士後期課程1年目は自治体の小学校で1年間、非常勤講師として働く。博士後期課程2年目はアメリカと行き来。その後、株式会社LITALICO研究所長として、学校・少年院等との共同研究や連携などに取り組む。2018年3月に博士号(障害科学)を取得。一般社団法人UNIVAの立ち上げに参画、理事に就任。2022年3月、株式会社LITALICOを退職。2023年1月、第一子出産。現在は子育てを優先しつつ、インクルージョン実現のために研究と実践と政策を結ぶことをライフワークに活動している。著書に『LDの子が見つけたこんな勉強法 「学び方」はひとつじゃない!』(共著/合同出版)、『差別のない社会をつくるインクルーシブ教育』(共編著/学事出版)、『発達障害のある子どもと周囲との関係性を支援する』(共著/中央法規出版)などがある。
「ふつう」とは?「平均」を求められる子どもたち
――子どもの世界における「ふつう」について野口さんはどう思いますか?「みんなと同じものを持ちたい」「みんなと同じ(状態)でいたい」など。大人は「自分らしく育ってほしい」と思っていても、そんな発想が子どもから生まれるのはなぜだと思いますか?
子どもにとって、生活のメインが学校と家になっていることで受ける影響が大きいと思います。さらに、情報源としてはYouTubeやInstagramなどのSNS、メディアが中心となり、そういったものから得られる情報が偏っていることも原因に挙げられると思います。
いわゆる今主流といわれるものや人、つまりマジョリティが中心になっていて、それだけを見ていると、それらが「ふつう」だと思わざるを得なくなるのかなと思います。
――もう少し詳しく教えてください。
個人的な話をすると、私は高校時代をアメリカで過ごしたのですが、20代から40代の人とバンド仲間として活動する中で、たくさんの人と出会いました。そこでは、働いてから大学に通う人や、アーティストとして活動する人もいたり、何をしているかよくわからない人もいたり。いろいろな生き方をしている人との交流がたくさんありました。活躍している人もいれば、まわりから心配されるようなことをする人もいて。いろんな人に出会えると、わりと「ふつう」の概念はひっくり返されていくのかなと思います。
「ふつう」を気にすることが多いのは、出会う人の人数が限られている環境で、SNSなど目や耳に触れるところに埋め込まれている「ふつう」という幻想の概念のシャワーを浴びた結果のように思います。
インクルーシブ教育をテーマに登壇し、話をする野口さん(写真提供 : 野口さん)
――「ふつう」という幻想とはどういうことでしょうか。
いくつかあるとは思いますが、二つ挙げるとすれば、一つは、先日のインタビューの話にもつながりますが、「ふつう」の基準は、マジョリティが決めていることだと思っています。または、より権力のある人です。「ふつう」の例でいうと、「校長先生は男性」「社長は男性」「女子はこう、男子はこう」といった、いつの間にか決められたイメージなど。そういったマジョリティを中心とした規範が一つの「ふつう」だと思います。
もう一つの「ふつう」は、たぶん幻想で、学校でも、平均なんてなくて、平均な子なんていないのに、子どもたちはいつの間にか「平均」のようなものを求められているように感じます。
学校のルールを守る、先生の言うことに従うことが「ふつう」だとされる。そういった考えや習慣のシャワーを日常的に浴び続けると、それが「ふつう」になっていくのではないのかなという気がしています。
みんな、それぞれの「ふつう」は違うはずなのに、まわりにいる人たちにとっての「ふつう」に合わせなければいけないと思わされてしまう。そういった圧力のようなところからできあがっていくのかなと思います。
「ふつう」は国や文化、文脈によって違うことを肌で知った
――「ふつう」という言葉は日々あふれていて、人々も「ふつう」であることが“当たり前”だと感じる場合が多いように思います。『広辞苑』にも「普通版」があって、飛行機にも「普通席」があるように。
学校にも普通学級がありますよね。
――みんなと違う状態になって「ふつう」から外れた時、人は大きな苦しみを感じることすらあるように思います。みんなと同じことができるのはもう“当たり前”だから、できなければ存在価値すら認められないと、自分の価値を下げてしまうこともあるように思います。
苦しいですね。
――しかも、「ふつう」のハードルが高いようにも感じます。まわりよりも、「ふつう」よりも上でなければ自分に自信がもてないと思ってしまうなかで、「ふつう」の壁はとても頑丈で、取り払いたくてもなかなか簡単ではないようにも思ってしまいます。野口さん自身は「ふつう」に対して疑問などを解消した経験はありますか?
私の場合は二つあります。一つは、アメリカにいた経験が圧倒的に大きいですね。当然、日本における「ふつう」とアメリカにおける「ふつう」は違います。私は、アメリカでの学生生活で、「結局、国や文脈、文化によって何が常識か、当たり前かは違うんだ」と肌で感じたんです。「環境次第なんだな」とか。そういった気づきは自分にとって本当に大きくて、何が「ふつう」かというと、普遍的なものがあるわけではなく、流動的なものというか、そういったことを肌で知ったかなと思います。
初めてアメリカの「ふつう」に驚いたのは、家族でアメリカに移住してすぐの頃、小学校の先生がサンドイッチを食べながら、コーラを飲みながら、生徒たちにテストの問題を出していたことです。それに、先生たちはよく机の上に座るのですが、日本の学校では絶対にあり得ないですよね。
アメリカの先生たちは床にもよく座ります。というのは、アメリカでは家でも学校でも外履きで過ごす習慣があるからです。校内の床にもカーペットが敷かれているので、先生も生徒もよく床に寝そべるんです。日本だと、「汚いから座らない」といった感覚になることが多いと思うのですが、私自身は、床でも手足を伸ばして横になるアメリカの文化や環境に大きな影響を受けたと思います。
自分と相手の「ふつう」は異なり、ただの「違い」だと思えた理由
「ふつう」に関する気づきを得た経験のもう一つは、障がいのある子との出会いです。相手の子の「ふつう」が、私にとっての「ふつう」とは違うことを知りました。
例えば、相手の子にとって音声言語で話すことは「ふつう」ではないこともあります。また、相手が感じる世の中は、すごく混とんとしていて、つらいという場合も。
今の社会は、たまたま私のような感覚過敏でもなく、教育も大学まで受けられるような人を中心につくられています。でも、それは本当にたまたまのこと。たまたま自分がマジョリティということなんです。
そう気づいていくなかで、人が自分の存在を尊重すること、またその人自身が世界をどう見ているのかまで気にしながら人と接するようになりました。そうすると、どちらが正しいか間違いかの話ではなく、「ただの違いなんだ」と思うようになりました。たまたま多数派かそうではないか、なんだと。たまたま自分にとっての「ふつう」がこうなんだと。それは優劣の問題ではなく、ただの違いなんです。それなのに、さぞかも優劣があるかのように見せられている、思わされている状況だと思います。
例えば、アメリカに行っても「ふつう」がそれまでと大きく違っていてすごくつらい思いをしたり、日本に帰国した後も、「ふつう」と違っていたことでつらい思いをしたり。「自分がほかの人と同じようにできないのは、自分に原因があるからではないか」と自分を責めてしまったり。
「コミュニケーション力が……」への考え
自分に求められる「ふつう」の基準が高いことは、特に日本においてすごく感じます。時代によって違うとは思うのですが、「できなければいけないとされること」のハードルはすごく高くなっていると思います。「これもあれもできなければいけない」という。
特に抽象的なコミュニケーション力などで感じますね。コミュニケーションは、本来、双方向のもので、お互いで築き上げていくものなので、どちらかだけにその力がないということはあり得ないと思うんです。
でも、「ふつう」に合わせられないほうが、「コミュニケーション力が低い」と言われてしまう。自分の意見をもち、主張すると、なぜか「コミュニケーション力が低い」と言われてしまうことも。「自分の意見を主張できた方がむしろ良いのでは?」「アメリカだと逆ですよね」ともいえます。例えばそういうことだと思います。
「ふつう」に振り回されないために
――世の中の「ふつう」にのみこまれず、自分を大事にしていくためにできることはありますか?
大人も子どもも、まず「ふつう」が何によってつくられているのかを知ることが大事だと思います。普遍性も実は普遍的ではないことなど、まずその事実を知るのです。国によって「ふつう」は違ってきます。時代によっても違うし、本来流動的なもので、そんなに大きな問題ではないと知ることができるといいですね。
環境や文脈によっても違うという点では、ある会社では「これがふつう」だけれど、ある会社では「ふつうではなかった」ということが例として挙げられます。ある家庭では「ふつう」でも、ある家庭では「ふつうではない」など。
そういった見方でいえば、自分が「ふつうではない」と思っている人は、たまたま今自分が属している集団における「ふつう」に自分が当てはまっていないだけの話だと捉えられたらいいなと思います。
――まわりの「ふつう」に囚われない方法としては、環境を変える、いろいろな人と出会うなどして、「ふつう」の違いや自分の「ふつう」を知ることでしょうか。
もし、今いる集団の「ふつう」に居心地悪さを感じるのなら、環境を変えたり、その集団における「ふつう」とは異なる集団の「ふつう」を知ったりする。そういったことは方法の一つとして有効なのではないかと思います。
――ありがとうございました。
野口晃菜さんのこちらの記事もぜひ合わせてお読みください。
>> 「残りの人生をかけてやり遂げたい」学校や企業と仕掛ける、社会そのものを変える挑戦―インクルージョン研究者 野口晃菜さんVol.1【DRIVERS】
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