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障がいは隠して生きていかなければいけない、とは言いたくなかった。作家/セラピスト・田村真菜さん(前編)

2017.04.21 

仕事を“つくる”女性のライフストーリーを届ける連載、「彼女の仕事のつくり方」。4人目は、作家でセラピストの田村真菜さんです。

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母と妹と3人で、野宿で日本一周した小学生時代

セラピストとして東日暮里の長屋でスウェディッシュマッサージを施術するかたわら、フリーランスの編集・ライター・カメラマンとして働いてきた田村さん(実は田村さんは、このシリーズのこれまでの写真をすべて撮影してくださっています)。

先日、作家として初の単著である自伝的ノンフィクション・ノベル『家出ファミリー』(晶文社)も出版されました。物語は、母と妹と3人で野宿で日本一周した10歳の田村さんの体験から生まれています。

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起業家、フリーランス、新卒でのNPO法人勤務というキャリア

12歳まで学校に通わず、子役として働きつつ家で動物たちと学びを深めていく幼少時代を過ごした田村さん。大学入学後は、学費を稼ぐために契約社員としてニュース配信企業に勤務し、一般社団法人の立ち上げに参画。新卒で起業家支援のNPO法人へ参画した後には、起業も体験されています。

多くの出来事に巡り合った田村さんの人生は、稀有なものかもしれません。けれど、生まれた環境や持って生まれた自らの特性に誠実に向き合う彼女の姿には、誰にとっても学びになる力強く生きるヒントがつまっているのではないでしょうか。

いま何かを変えたいと感じている女性にとって、田村さんの世界観が変化を後押しする力になれば幸いです。

小学校で初めての集団生活。なじめずに、自然と学校に行かなくなった。

ボディーワークをされている東日暮里の長屋にて。書棚に並ぶ書籍は、体に関連するものから狩猟についてのもの、アーミッシュの写真集まで幅広い。

ボディーワークをされている東日暮里の長屋にて。書棚に並ぶ書籍は、体に関連するものから狩猟についてのもの、アーミッシュの写真集まで幅広い。

桐田 まずは学校に通っていなかった幼少時代のお話から聞かせてください。最近では学校に行かず自宅で学ぶ子どもたちも増えていると聞きますが、田村さんの時代にはまだまだ少なかったはずですよね。通わなかったのは、どんな理由からでしたか?

田村 まず、私は幼稚園・保育園に通ってなかったんです。そこからいざ小学校に入学したら、皆が同じペースで行動できることに驚いてしまって。ほとんどの子どもは幼稚園・保育園に通っていて、その段階で訓練されているけれど、私は初めての集団生活だったので。 そこから、自分にはこの集団生活が合わないと両親に相談して、入学から2週間の間にお嬢様学校のような私立も含めてたくさんの小学校を体験してみました。でもどこも合わなくて、けっきょく行かなくなったんです。

桐田 そこで行かないことを受け入れてくださるご両親が素敵ですね。

田村 そうですね。英才教育というわけではないけれど、皆が幼稚園・保育園に行く時期にあたる3歳ごろから、母の意向で子役として働いていたんです。「時間の大切さを教えたかった」らしいんですが。

桐田 「時間の大切さ」ですか。どういうふうに感じましたか?

田村 母が意図しているものとは違う意味だったとは思うんですけど、自分は女性としてこの業界で何歳くらいまで働けるのかとかは、子どもながらに考えていましたね。あとは、時間や挨拶に厳しい業界ではあるので、出勤して一番最初に挨拶する大人が誰なのか子どもなりに考えたり、ですね。

蔵書が1万冊ある軋んだ家で、本に囲まれた日々。

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田村 あと、小学校入学前までは、両親が自分の手で作った教材で勉強を教えてくれていて。手書きで書いた漢字の辞典とか、スタンプを押して作った掛け算の表だとか。そういったもので勉強しているうちに、特に数学とかは、小学校入学前には6年生の勉強も解けるようになっていたんです。その状態で入学となると、日本では飛び級とかできないので、小学校に入っても進度の違いで困ったんだろうなとは思います。

実際、数学ではないですが小学校1年生のときの宿題で読書感想文が出て、絵本とか童話を選ぶ年代だったんでしょうけど、そのとき自分が感動していたのが『Les Misérables』だったから一生懸命書いて学校に持っていったんですね。すると先生に、「難しすぎるから、簡単なものを読んで書き直してきて」って言われてしまいました。

桐田 それは悲しい。けれど、『Les Misérables』に感動する小学1年生って、中々出会わない気がします。

長屋の、不思議な影をつくる灯り。リフォームは自分でされたのだとか。

長屋の、不思議な影をつくる灯り。リフォームは自分でされたのだとか。

田村 父が自営業で家で校閲者をしていて、家に1万冊以上という蔵書があったんです。書籍の重みで、家って傾くんですよ。本当に。だから、「あれ、床がなんだか斜めだけど、軋んでるけど……」という家で育って、読む本だけはたくさんある環境でした。私は、手元に読むものがないと落ち着かないという感じで、新聞や本が好きで、活字中毒でしたね。学校に行くと、どんな環境に生まれても能力が標準化される側面がありますけど、学校に行っていないぶん家での学びがダイレクトに影響していたんだと思います。

動物がただ自分の身体だけで、何もなくても生きられることが羨ましかった。

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桐田 『Les Misérables』以外で、小さなころ感銘を受けた書籍はありましたか?

手塚治虫の漫画は好きで、感銘を受けましたね。でも、親が唯一買い与えてくれた漫画が手塚治虫と宮崎駿だったということもありますが(笑)。ブッダとか火の鳥とかが、子ども心に「この宇宙観すごいなあ!」って。

桐田 宇宙観に惹かれたんですか?

田村 小学校に通っていないぶん、自然と触れ合ったり、飼っていた動物の世話ばかりして過ごしていたので。生まれは池袋だったんですが、4歳の頃に神奈川県の大磯へ引っ越したんです。大磯は歩いて海に行ける土地で、海に行くとなまことか魚とか手づかみで捕まえられて、海だけじゃなく山も近くて、狸を見たり、どんぐりを拾って食べてみたりしていました。自然がとても身近に溢れていたんですね。

あとは、動物って死んでしまうじゃないですか。そうしたときに、「死後これはどこに行くのだろう?」と疑問に思っていたこともあって。あるとき、死んだ動物を捨てるのがもったいなくて、布に包んでタンスの中に入れていたら、気がついたら別の物体になっていたこともありました。そうやって、弱った動物が死んで固くなる瞬間があると思うのですが、どの段階でこうなってしまうのかとずっと不思議に思っていて。

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桐田 動物に、特別な感情があったんですね。

田村 そうですね。動物がただ自分の身体だけで、何もなくても生きられることが羨ましくて。私は箸を使えとか服を着ろと言われるのに、動物たちはそのままで生きていることがすごく羨ましかったんです。幼いころ彼らの真似をして、冬なのに服を着ないで猫と一緒に近所を走っている時期がありました(笑)。

桐田 それはすごい! 動物とも話せそうですね。

田村 そうですね。最初、猫はなんでこういうポーズができるのかと思って真似してみたり、鳥はこういった気分のときにこんなポーズをするのかとか、犬の舌の動かし方とか尻尾の動かし方とか、そういったことをずっと観察して、こういった動作にすれば私も同じ感情ってことが伝わるよねと思って動きでコミュニケーションしたりしていました。

負けず嫌いで、数学からアートへ方向転換。

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桐田 鎌倉に引っ越した小学校6年生の夏から学校に行くようになったと伺いました。はじめての学校は、どうでしたか?

田村 意外と楽しかったですね。周囲に大勢人がいる環境、放課後の買い食いやプリクラが新鮮で。中学生になって、また学校に飽き始めましたが(笑)。

桐田 学校に馴染めなくはなかったですか?

田村 上下関係を気にせずルーズソックスとか履いていたので、先輩からの評判はよくなかったですが、中学生にしては背が高かったせいか女子モテしていました。バレンタインに後輩の女の子たちから50個くらいチョコもらったりしましたよ。普通に公立の共学だったんですが。

桐田 すごい、漫画みたいな学生生活(笑)。高校では将来のことを考えたりしましたか?

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田村 クリエイティブに関心があって、高校から美大向けの予備校に通い出しました。でも、中学生くらいまでは数学がすごく得意で、家で一人で数学の問題を解いている時間が至福だったんですよ。ただ、そうやって自分で新しい円錐を求める公式を考えたりしていたら、人に薦められて数学オリンピックに出ることになって。そこで最終的に国際大会には行けなくて、これは私は数学での世界レベルでの勝負はできないなと思って、アートに方向転換したんですね。

桐田 世界レベルで勝負できないという気づきが、そこまで大きかったのですか?

田村 競争が好きで、負けず嫌いだったんです。あとは両親を見ていて、ある程度社会での発言力があることは大事なのだろうと思っていて。私の両親は暴力を振るうときもあったけれど、間違っていないことを言っているときもあったんです。けれど学校では、「父親は働いていないし、おまえらは親子そろってどうせ社会不適合者なんだよ」と先生に言われて。

すごく失礼な発言ですけど、先生という社会的な立場があるし、そっちの発言の方がもっともらしく認められる。このとき痛烈に、何を言うかより誰が言うかが大事な部分があるんだなって思ってしまって。そこから、なれるものなら社会で評価される人間になりたいと思うようになりました。

君にしかできない体験だから、ギフトだよ。

桐田 でも、大学は美術系ではない国際基督教大学(ICU)でしたね。

田村 そうなんです。実は、受験期に色々あり記憶喪失になってしまい一浪しまして……。何がしたかった人間なのか忘れてしまって、自分がやってきたことへの愛着はそこで失ったんです。同時期に、医者にリンパ腫の疑いがあると告げられるなど体調も悪く、起きて机に座ることすらできないときもありました。家にお金がないので、最初は国公立を希望していたのですが、センター試験の日に具合が悪くなって駅で倒れてしまって。

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桐田 大変な受験期を過ごされたのですね……。無事に入学できて、ICUでの生活はどうでしたか?

田村 何より先生がすごく良い人たちでした。外国人の方が多くて、英語習得の意味も含めて、最初は先生と英語での交換日記を書くことからはじまります。そこで、毎日あったことと、感じたこと考えたことを伝えるんですね。 私は、ICUに入った段階で自分が発達障害で、聴力が低く、会話などがほとんど聞こえていないことも判明して。でも、そういった障がいや記憶喪失のことを日記で伝えても、ICUの先生方はすごく肯定的でした。「それは君にしかできない体験だから、ギフトだよ」と。

あとは、母親からまとまったお金を入学時に渡されて、残りの学費や生活費は自分で稼がなくてはいけなかったので、入学後は契約社員としてニュース配信メディアで編集者をしていました。

桐田 大学に通いながら働くって、本当にハードですよね。

田村 はい、本当につらかったです。ただでさえICUは課題の量が多く、さらに2年生までは授業はほぼ英語ですし、基本的にバイトはすすめられていません。そんな環境で、週5で学校に通って、週4で働いていましたから。朝7時から8時間仕事をして、そのあと大学に行って。1日3時間寝れたらいい方で、働きすぎて血を吐いたりしていました。若かったからどうにかなりましたけど、もうやりたくないですね……。

「障がいは隠して生きていかないといけない」とは、言いたくなかった。

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桐田 その後、田村さんは新卒でNPO法人ETIC.(エティック)に参画されていますね。ニュースの編集部に残ろうとは思わなかったんですね。

田村 思わなかったですね。ただETIC.にも最初から行きたかったわけではなく、普通に大企業の選考も受けていて、大手広告会社でも半年間のインターンに参加したりしていました。でも、インターンは通ったんですけど、内定は全然もらえなくて。

当時、私は自分が発達障害があって難聴であることや記憶喪失になったことがあることを、就活の面接で包み隠さず伝えていたんです。そうすると、その話をした時点で落とされるんです。けれど、最初はどこかのん気で、そのことに気がつかなくて。とある面接で、「一度病気になっている人は、再発の可能性があるから採用はできない」と言われて、失礼な物言いだなと思いつつ、落ち続けた理由にやっと気づきました。大学では「その経験は君にしかできなくて、絶対何かに生かせるよ」と言われていたから、外の世界でそう扱われることに気がつかなかったんです。

まわりからは、発達障害のことは隠して就活したほうがいいと言われました。働けないのは困るので、黙って社会に出るべきなのかという葛藤も生まれて。ただ、私がもしここで黙って入社したら、これから障がいを抱えている人に出会ったときに、「それは隠して生きていかないといけないんだよ」としか言えなくなってしまう。それは嫌だったんです。そうしたときに、大学の知人を通して知ったETIC.の採用ですべて伝えてみたところ、「田村さんはコウモリ飼ってるんだって! 面白そうだよね〜」と事務局長がのん気に変人枠採用してくれたので、「いろいろ話しても大丈夫だったから、ETIC.に行こうかな」と参画することに決めました。

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桐田 事務局長、心が広いですね(笑)。でも、実際は色々見ての総合的な判断だったとは思いますが。

田村 あと、当時は色んな企業の方に、田村さんは作家かアーティストになるしかないんじゃないかって断るときに言われていました。今考えれば当たっているんですけど、当時は普通に会社員になりたかったんですよね。

桐田 会社員になりたかったんですか?

田村 お金も普通に欲しかったですし、あまり作家になりたいとかアーティストになりたいとか、思ってなかったんです。普通に働いて、普通の人生を普通に歩んでみたかった。あまり突飛なことをしたいという気持ちはなかったですね。

桐田 逆に“普通でいたくない”という人もいらっしゃいますが、なぜ田村さんはそう考えていたのでしょうか?

田村 金銭面で不安定であることの大変さを知っているから、ですかね。例えば、今月100万円入ったけれど2か月は収入がないとか、ゴミを拾って売ったりした経験もあるから、お金が毎月入るサラリーマンってすごいな、なりたい! という感じです。

物語を読んだ人が共感して行動まで移してくれるには、どうしたらいいのか。

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桐田 そういえば、卒論ではどんなことを書かれたんですか?

田村 人はどうして他者の痛みをあまり感じられないのかということに興味があって、「当事者性をいかに獲得していくか」というテーマで執筆しました。当時はスーザン・ソンタグをよく読んでいたので、その影響もありました。『Regarding the Pain of Others』とかですね。

桐田 その問いは、働きだしてからも持たれていましたか?

田村 そうですね、ある意味では。ETIC.ではメディアの編集や執筆も担当していたので、物語を読んだ人が共感して行動まで移してくれるにはどうしたらいいのかを考えていました。ニュースだと、記事を読んで大変だな、何かしたいなと思った気持ちを次に繋げる仕組みがつくれなかったので。ETIC.だと、寄付やボランティアや現地への視察プログラムなど、その先の行動へ読者を繋げる実験できたからよかったです。

桐田 ETIC.での学びはどんなものでしたか?

田村 オフィスを自分たちで掃除したり、子どもを連れてきたり、そのフラットさにすごいなと思いましたね。大手企業だと掃除は清掃員がするもので、女性の管理職にも子どもがいない方が多かったですから。当時はそんな状況を見て、女性は子どもがいると出世しづらいのだろうなと思っていたので。 あとは、非営利ということもあって、皆それがやりたくて働いているから総じて気持ち良く働けました。その分、実力主義ではありましたね。普通の会社だとモチベーションがあるだけで頭一つ抜けますけど、皆基本的にはやりたくてきているので、それ以上に能力を必要とされます。その中でどうしたら仕事を任されるのかと考えたときに、精神的に安定してみせることの大切さも学びました。どんなに直前に仕事を頼まれても、笑顔で受け取ることとかですね。

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>>後編「誰かの命の糧になる生き方を。」へ続きます。

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桐田理恵

1986年生まれ。学術書出版社にて企画・編集職の経験を経てから、2015年よりDRIVE編集部の担当としてNPO法人ETIC.に参画。2018年よりフリーランス、また「ローカルベンチャーラボ」プログラム広報。