大阪府箕面(みのお)市。人口13万人ほどのこの街に注目してほしい事業所がある。豊能(とよの)障害者労働センターだ。ここでは「対等」をキーワードに、重度の障害をもつ人と健常者が一緒に事業を運営し、給料を生み出している。
いわゆる、健常者は支援者として障害者のサポートにまわるという従来の福祉の作業所とは異なるやり方だ。その仕組みをつくってきた豊能障害者労働センターの挑戦を、副代表の新居 良(あらい りょう)さんのインタビューを通して紹介する。
豊能障害者労働センター 副代表の新居良さん(右)
重度障害者と健常者がともに経営を担う
豊能障害者労働センターには、重度障害をもった人をはじめ障害者スタッフが37名、健常者スタッフが23名在籍。代表の小泉祥一(こいずみ しょういち)さんは脳性まひで重度障害にあたる。副代表の新居さんらとともに経営を担い、車いすを動かしながら、主力のリサイクル事業4店舗をはじめ事業所の売上げを管理するのが日課だ。
店舗や銀行をまわる代表の小泉祥一さん
そんな小泉さんが豊能障害者労働センターを設立したきっかけは、国際障害者年がうたわれた1981年、就職活動をする際に感じたやり場のない憤りと強い想いだった。「働きたくても行き場がない」「重度の障害があっても、人として当たり前に働いて生活費を稼ぎたい」。
翌年の1982年、小泉さんを含む障害者2名と健常者4名の計6名で豊能障害者労働センターを設立し、障害がある人もそうでない人も、ともに働き、生活に必要な給料を生み出す場として様々な方法を取り入れていった。
最初は粉石けんの袋詰めと販売、駅前でのカンパ、ヘルパーの仕事などで収入を得て、全員で分け合った。 その後、様々に試行錯誤しながら、リサイクル事業、オリジナルのカレンダーやTシャツなど通信販売事業、点訳、飲食店経営など現在の4事業まで拡大していった。
想いと実績が行政を動かし、対等な給料を可能に
小泉さんたちの想いと活動の積み重ねは、箕面市をも動かすことになった。箕面市では、1986年から10年ほどかけて独自の「障害者事業所制度」を整備してきたが、これは豊能障害者労働センターが1983年に出した要望書をもとに協働でつくられていったものだ。
「要望書の柱は3つほどあるのですが、1つめは働くことを抜きにして、障害者が地域に根差した生活を送っていくのは難しいということ。今の社会は、仕事を通して人と人とがつながっていく仕組みになっています。暮らすことの支援だけだと、消費者や利用者の立場でお金を使うだけになってしまい、なかなか人とつながれない。だから仕事をすることを中心に捉えなければならない。
その働き方についてが2つめになるのですが、重度障害者がバリバリ働いて稼げるかというと実際のところ難しい。だから、チームを組んで生産性を上げていく必要がある。人と人との関係の中からチーム、職場をつくっていって、社会に広げていきたい。そして3つめは、それを障害者だけの閉ざされた世界で実践するのではなく、市民のみなさんとつながりながら展開していきたい。その応援をお願いします、という内容でした」
要望書を提出した後は、箕面市と「切磋琢磨しながら、アイデアを出し合いながら」、制度の完成へと近づけていった。そして、1997年に箕面市の障害者事業所制度が制定された。
この制度では、大阪府の最低賃金(2018年10月1日時点では936円)を補償することを前提に、「職業的重度障害者を4人以上(かつ3割以上)雇用している」、「事業所の経営機関に障害者自身が参加している」、「事業所としての経営努力がなされている」などの条件が満たされた事業所を対象に、障害者の賃金の4分の3が助成される。これに障害者を雇用する一般の企業に出される国の助成金や事業収益をあわせると、自立的な生活が可能になるという。障害者の賃金には助成金が補填できなかった従来の福祉の制度と比べると、画期的だ。
「制度が制定される前は、事業収益だけが障害者の賃金にあてられていました。そのために低い賃金になってしまっていた。制度が制定されてからは、それを職員全員で分けています。収益を上げて全員の給料をしっかりと出さなければ助成金は出ないシビアな制度でもあるので、その分稼ぐ必要がありますが、職場全体の『ともに稼ぐ』という意識は強いですね」(新居さん)
障害?別にいいんじゃない?
副代表の新居さんが豊能障害者労働センターに入社したのは1998年。昨年でちょうど20年になる。新居さんはもともと京都大学大学院で経済学を専攻し、研究者を目指していたが、体調を崩して活字が読めなくなってしまった。
就職活動が難航する中、縁あって知的障害者の人たちが働く作業所とつながり、介助員として2年間働いた。そこで救われたのが、障害をもった人の「はじけるような明るさ」だったという。「こうでなければならないという、自分の強い思い込みから解放されたと思います。こういう人たちと働けたら幸せだなと思いました」。
そんなとき、「あなたの力が発揮できそうだから一緒に働かないか」と声をかけられたのが豊能障害者労働センターだった。入社した新居さんだが、まず以前の職場にはなかったやりとりに衝撃を受けた。「あの方にはどんな特性(障害)があるのですか?」と周囲のスタッフに聞くと、「さあ」と返事がきたのだ。
「どの人にどんな障害があるのか、後々わかってくるのですが、障害?別にいいんじゃない?という雰囲気だったんです」
新居さんの驚きはまだある。仕事が終わると、「ご飯食べに行く?」と障害者と健常者が声をかけあうこと。以前働いていた作業所では、定時になれば、障害者と健常者のグループに自然と分かれていたという。当たり前だと思っていた景色の先に、別の世界が実在することを知った。
「ここでの20年は、育ててもらったという感覚が強いです」と新居さんは言う。
「豊能障害者労働センターでは、障害者も健常者も関係なく、仕事のパートナーとして協力しあうというスタンスで働いています。福祉の作業所との大きな違いは、全員のモチベーションの高さではないでしょうか。通常、障害者が働く現場では、障害者は利用者、健常者は支援者として立場が分かれてしまいがちです。それに、支援される側はどうしても受け身になって、仕事の幅が狭まってしまう。そうではなく、一人ひとりの力を発揮するにはどうすればいいか。その働き方をつくるために工夫を凝らしてきました」
得意にあわせて仕事を分業化し、チームで動く
障害がある人も、ない人も、一緒に働き、稼げる職場環境をつくる。新居さんが語るそのための工夫とはこうだ。たとえば、カレンダーの発送業務は、カレンダーをまるめて透明な筒に入れる、箱を選ぶ、発送する際の料金をパソコン上に入力するなど得意とするところを分担しあう。また、料金表は、障害をもった人にあわせて見やすい形に作った。
リサイクルショップでは障害のある人が簡単なレジを担当。事務作業ではシステム会社に依頼してQRコードのソフトを導入し、必要な伝票項目がパソコン上にわかりすく表示されるようにするなど混乱しやすい作業をできるだけなくした。最初は職員が対応できるかどうか不安もあったが、始めてみると、担当者から「楽しい」という言葉が聞けたそうだ。
仕組みづくりに着手し、仕事のやり方に慣れていくまで、トータルで見ると確かに時間はかかるかもしれない。一時的に大きな赤字が出たこともあった。けれども、こんなふうに仕事を分業化しながら、一人ひとりの「力を発揮する」仕組みをつくり上げていく中で、売り上げも上がっていった。何より、職員たちの「自分は会社にとって大事な存在」といった気づきや、「求められているのだから」という前向きな意欲につながるのだという。
「もちろん無理はしない範囲でですし、一人一人のペースを尊重しながら仕事をするのは簡単なことではありませんが、可能性を感じています。
新しいことに対して『できない』と言いがちだった自閉症傾向にある職員は、仕事をしていくうちにそんなことはなくなりました。できることが増えて楽しいようです。そのうえ、もっと重度の障害を持った職員のことを考えて仕事の割り振りを考えるようになるなど、彼の中で自然とチームに対する責任感や特別な思いが生まれています。
障害の有無に関わらず、そういった変化にふれながらお互い成長しあえることが、豊能障害者労働センターの一番おもしろいところだと思います」
お互いの間の課題を共有し、一緒に解決していく
「もちろん、できることに限界はあると思います。限界があって当然です」と新居さん。
「私自身もできることと、できないことがあります。それは障害者も健常者も関係ない。みんながお互いの限界を知ることができたら、それを補い合えるように協力できるし、そこからプラスを生み出していくこともできる。また、障害はその人特有のものではなく、人と人との間にある壁のようなものだと思っています。それをいろいろと工夫することで乗り超えられれば、豊かな関係性が生まれるのではないでしょうか」
人と人との出会いは良いことばかりではなく、価値観の衝突が生じるなど距離を置きたくなる場合もある。そういった時に、問題だと感じることを共有し合える関係性を大切にしたいと新居さんは言う。
「一緒に仕事をする時に、何かの問題が原因でスムーズに関係性が築けない時には、表情をしっかり見るようにするとか、相手に合わせて答えの選択肢をいくつか用意するとか、いろいろな方法が生まれると思うんです。人と人との間に生じる困難なことや障害を共有しながら関係性をつくったり、何かを生み出したりしていくことでお互いが豊かになれる。これは豊能障害者労働センターで実感できていることです。
価値観の合わない人とも、別世界の人と切り離すのではなく、同じ人と人だよね、と向き合うことができたら、こうしたプロセスはとても豊かなものだと感じます」
バザーの売上げを被災地の障害者団体に寄付
豊能障害者労働センターでは、1995年の阪神・淡路大震災から被災地支援を続けている。最初は、救援物資だった。カレンダーを通信販売していた関係で、全国の学校の先生たちとのネットワークがあったため、1982年から発行している機関紙「積木」(発行部数:約1万部)で呼びかけたところ、全国から数多くの物資が届いたという。
トラックを使って被災地に届けていたものの、予想以上の物資が送られ続けたため、バザーで売上げを寄付することにした。当時の寄付金は約400万円。リサイクル事業は、この後も送られてくる物資を有効に使いたいという思いから始まったものだ。
「もちろん、事前にみなさんから許可をいただきましたが、リサイクル事業はこんなふうに偶然生まれたものでした。今でも全国から商品となる物が送られてくるので、ありがたいですね」
バザーの売上げを被災地の障害者団体に送る活動は、現在も地道に続けている。
働きづらさを抱えた人たちの仕事をつくり続ける
「実は、2019年春に通信販売での発売を目指しているオリジナル商品があるんです。無農薬のお茶と特別なはちみつを混ぜあわせた「はちみつお茶石鹸」という商品で、今試作を重ねているところです」
「はちみつお茶石鹸」が試作段階までくるのに、人とのつながりづくりに1年、商品開発に1年とあわせて約2年を費やしたという。なお、ここでいう人のつながりとは、業者や協力者、そして、何らかの障害や事情で働きにくいと感じている人のことをさしている。この商品の発売が決まればまた新しい仕事が生まれる。
「商品開発では、企画会議で職員たちの視点を活かしてもらうこともあります。その後はいつものように話し合いながら、みんなが箱詰めしやすいような箱を作ったり、包装しやすい体裁にしたりして、チームを組んで仕事を進めていきます」
ここでの主体はあくまでも人だ。事業やプロジェクトに沿って決められた仕事をするのではなく、人にあわせて仕事をつくり出していく。自分にあった仕事ができる。さらに向上したい人にはそのための場もある。しかも「自分は会社の役に立ってる」という意識をもちながら。
インタビューで語る新居さんは終始、言葉を丁寧に選びながら豊能障害者労働センターのことを教えてくれた。そこからは、「本当に楽しい職場なんです」という想いが受け取れた。最後に、豊能障害者労働センターの今の雰囲気を感じられるエピソードをご紹介しよう。
もともと新居さんは、職員たちの様子がわかりやすいように事務所の真ん中に大きな机を置いて仕事をしていたそうだ。それがある日、手狭に感じるようになったことで窓際に移動させてみた。すると、逆に見通しがよくなった。そのうえ、障害をもった職員たちの目がキラキラして見え、態度もフレンドリーになってきたという。
「壁は自分がつくっているのだと改めて思った出来事でした。アイデアや発想もそれから柔軟になった気がしますし、いろいろな視点で考えることのよさを実感しています」
人とつながり、壁を乗り越えながら新しいものを生み出していく。36年かけて、こうしたプロセスがしっかりと仕事に活かされる仕組みをつくりあげてきた豊能障害者労働センターからは、これからもまた新しい仕事や働き方が生み出されていくのだろう。そしてそれが社会へと広がり、たくさんの笑顔が生まれていくことを願っている。
通信販売の新商品開発などを行う企画担当者を募集
ただいま、豊能障害者労働センターでは、障害者の日常の仕事のサポートや介助とともに、通信販売の新商品開発などを行う企画担当者を募集中。福祉の経験がない方でも応募可能だ。ご関心のある方は、まず詳細ページをのぞいてみてはいかがでしょうか?
副代表/新居 良
1963年生まれ。京都大学大学院で経済学専攻の研究者をめざすも、体調を崩し断念。その後、知的障害者の施設に介助員として入職。1998年より豊能障害者労働センター勤務。副代表となり現在に至る。座右の銘は「声なき声をしっかり社会に届ける」。
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