「東京って引力が強い街だなって思ってます。だから『いつかは地元に』っていう思いがあっても、実際に戻るのは結構難しいことなんですよね」
というのは、京都移住計画・田村篤史さんの言葉です。インタビュー当時は私も東京暮らし。Uターンという選択肢をぼんやりと考えながらも、それに向けた具体的なアクションを起こしているわけではなかった私の胸に、ぐさりと刺さる一言でした。
2008年4月、田村さんは「5年経ったら京都に戻ろう」と決め、東京で就職します。それから数年。自分も含め、同じく東京で働く関西出身の友人達が「“いつかは”地元へ戻るために必要な準備ってなんだろう?」と考えたことから立ち上げたのが、京都移住計画でした。
現在は田村さんが代表取締役を務める株式会社ツナグムの事業の1つとして、ボランタリーな関わりも取り込みながら、住まいや仕事に関する情報発信、リアルな場づくりなど、移住を希望する人と地域をつなぐ活動を続けています。
株式会社ツナグムの代表取締役を務める田村さん(写真右)
田村さんは、東京の人材系企業での勤務を経て(D)、2012年4月に京都へUターン。地元の企業で半分会社員(C1)として採用の仕事に携わりながら、半分はフリーランスという形で自身の「ライフワーク」と思えるまちづくり系の仕事を徐々に増やしていき(B1)、2015年に株式会社ツナグムを起業しました(A)。
パターンとしては第3回の市来さんと同じですが、明確に「戻る」ことを念頭に東京へ出た点が特徴的です。この「戻る」という意識が軸にあったことが、京都移住計画を始めとする事業内容にも現れているように思います。東京に出る前に「地域」を意識するきっかけとなった経験は何なのか、組織に頼らない働き方を選んだ仕事観はどのように形作られたのか、詳しく伺いました。
成長できる環境を求めて、APUへ国内留学
田村さんが地域と関わる仕事をしてみたいと思うようになったのは、大きく2つのきっかけがあります。その1つが、大分の立命館アジア太平洋大学(APU)への国内留学でした。
「逆のパターンは多いけど、立命館本校からAPUに留学するっていうのはだいぶマイノリティでしたね。僕は経営学部だったんですけど、将来は小さくてもいいから自分で商売したいなっていう気持ちがなんとなくあって、大学はそのための勉強をする場所だと思ってた。
けど、多くの人にとっては大学ってそういう場所じゃないんですよね(笑) 自由を謳歌するというか……それに2年も経つとコミュニティも固定化してくる。それはそれで居心地がよかったんですけど、『振り返ったときに何も残らないような過ごし方をしてていいのか?』と思ってしまって、環境を変えたくなったんです。留学も考えたんですけど、単位や費用の面でそれは難しい。そんなときに舞い込んできたのがAPUの交換留学の情報でした」
大学が出す情報はすべてサービスの一環と捉え、1年生のときから事細かにチェックし続けていたという田村さん。本人は「得られるものは得ないと損だっていう貧乏性」と笑いますが、チャンスを得られたのも能動的な情報収集の姿勢があればこそ。自分がより成長できる環境を求めて、在学生の半数が外国人という、国内トップの留学生比率※を誇るAPUへの国内留学を決めたことが大きなターニングポイントとなります。
※THE世界大学ランキング「外国人学生比率が高い大学ランキング」
https://japanuniversityrankings.jp/topics/00045/
思ってるだけ・考えてるだけの人と、やってる人の差ってすさまじい
APUで出会ったのは、田村さんの想像の遥か上を行く学生達でした。
「僕、大学1年生のときからビジネスアイデアをノートに書いてたんです。大学だったら4年のサイクルで家具や家電が捨てられていくから、それをリメイクして使えるようにして付加価値をつけて売れないか、っていうリサイクルショップの案とか。他にもいろいろ思ってたんですけど、実際には何ひとつやってなかった。
それが大学3年でAPUに行ったら、同世代の学生達がまさにそういうリサイクルビジネスをやってたんです。留学生は日本人学生よりもっとお金がないことも多いから、身の回りの備品をいかに安く揃えるかっていうニーズが明確にある。しかも半期で出ていく人も多いから、その分引き取りのニーズもある。タダ同然で引き取ったものをちょっと色付けて転売するっていう事業を自分達でやってて、なんならそれが進化してネット上でもできる。結構衝撃でした」
自分がやりたかったことすら軽く超えて、学生達が事業を回している現実。立命館本校ではまず目にしないできごとでした。
「すごいショックというか、嫉妬もしました。それに比べて自分は……みたいな(笑)これは今でも思ってるんですけど、そのときの教訓が『思ってるだけとか考えてるだけの人と、やってる人の差ってすさまじいな』ってこと。
ただ同時に、『同じ年数生きてる人間の差ってそんなにあるか?そうでもないだろ?』とも思って。彼らにできるなら僕にもできるだろう、って感じでスイッチが入りました」
そしてこのグループの仲間達と一緒に、地域のNPO法人から出資を受けて学生によるカフェを運営したり、観光客向けのフリーペーパーを制作したりするようになります。
「当時はやれへんけど『やる!』って言ってやれるようにする感じでした(笑)正月に実家から呼び戻されて、3日3晩暖房もない部屋でひたすら入稿に向けて作業したり……大変だったけどとにかく楽しくて、地域や町に関わることを生業にしていくおもしろさを感じた原体験ですね」
APU時代に経験したシェアハウス生活を東京でも再現
京都でのインターン経験から、自分の軸を見つけた
そして、地域に関わる仕事をしたいと考えるようになったもう1つのきっかけとなったのが、APUでの国内留学を終えて本校に戻って臨んだ、京都のベンチャー企業でのインターンシップでした。インターンが今ほどメジャーではなかった中、半年間休学してまで踏み切った理由は大きく2つ。
「1つは、実社会で働くっていう経験値がないまま就活することにすごく違和感があったんですよね。就職に関する大量の情報があっても、経験がないからジャッジすることができない。与えられる情報を鵜呑みにする危険があるから、自分の中の基準みたいなものをもちたいと思った。そのためには働いた方が早いなって。会社員として片足突っ込んでみて初めてわかる経験をもって就活すれば、普通の学生より見え方も変わるだろうなとは思ってました。
もう1つは単純に、卒業を遅らせたかったから。秋に卒業して、入社までの半年で海外を放浪したいという夢もあったんです。インターンと海外放浪、この両方を叶えられたら『学生生活やりきった!』って思えるから、休学した上でやろうと決めました」
インターンをした企業はイベントの企画やPRを請け負っており、京都の中小企業の社長と会う機会が多かったそうです。
「京都の企業はほとんどが中小零細なので、ワンマン経営や家族経営の範囲で事業をされている方にも結構会いました。それでそういう働き方が身近に感じられたんです。この経験がベースにあったので、地元を出る前から『東京で何かしらスキルを積んで、ゆくゆくは京都に戻ってそれを活かすような仕事ができたらいいな』と思うようになりました」
半年間のインターンの中で、経営者が優秀だからこそ社員との温度差が生まれてしまうといった、外からでは見えない中小企業の現実にも直面します。そこで田村さんが取った行動は、社長と直談判して「改善部」を立ち上げることでした。「やってみたらええんちゃうか」という社長の一声で、社内のネガティブな声を取りまとめて改善案をレポートにまとめるという業務外活動を始めます。
「組織がうまく回っていく状態や、人がいきいき働いている状態を作ることに、すごく熱量をもってましたね。僕がインターンを辞めるときの送別会で、ある社員さんに『田村くんが入る前は正直辞めようと思ってたけど、最近ちょっとずつ変わってきたし、もうちょっとここでがんばってみようかと思うんだよね』って言ってもらえたんです。それが営業で結果出すよりもうれしくて」
このときの経験から、「組織の中の“人”に関する問題に対して価値提供できる人になりたい」という軸が生まれ、人材系の転職エージェントへの入社を決めます。
“人と人をつなぐ”という軸は現在の活動にも通じている
リーマンショックで見えた、雇われる状態の不安定さ
東京に出たかったというよりは、内定を取った会社がたまたま東京だったため上京したという田村さんでしたが、東京に対しては「優秀で志の高い人が集まっている」というポジティブなイメージがあったそう。しかし、入社した2008年はリーマンショックの年。配属時には50人いたグループ会社の社員が、わずか8か月で4人になってしまうという事態を体験します。
「11人いた同期も、辞めたり転籍したりであっという間に2人になりました。新人2人で毎月ひたすら送別会の幹事をやっているような日々でしたね。転職エージェントの仕事をするつもりで入ったのに、2年目には家電量販店の販売員の仕事をすることになったり(笑)
そういう中で、雇われる状態の不安定さを痛感しました。組織の都合の前には、個人の描くキャリアパスなんて脆くも失われてしまうことだってある。自分の人生を誰かに預けてるような状況はちょっと違うのかなと感じたできごとでした」
「いつか帰る」っていつ?シェアハウスでの活動が京都移住計画の種に
一方で8時間労働が基本となったため、プライベートな時間には余裕が生まれます。そこで力を入れたのが、「Tsuchi Lab.(ツチラボ)」という名のシェアハウス運営でした。
「シェアハウスをやろうと思ったのは、APUでの経験がきっかけです。他の住人が間にいると、自分では招かないような人とも出会える楽しさがあったので。
それと、学生のときすごいアクティブでおもしろかった友人達も、社会人になると会社と家の往復のような生活になってしまっているのがもったいなく思えて……いろんな人と関わることで、自分達みたいな若手の豊かな土壌づくりにつながるような場を作りたかったという気持ちもあります」
「Tsuchi Lab.」には関西出身の若手社会人が集うコミュニティが育っていきます。「5年くらいしたら帰ろう」という想いをもっていた田村さんは、あるとき5年後を考えるワークショップを開催しました。
「その中で、『いつまで東京で暮らすの??』って問いを投げたんですね。そしたらみんな、『一生は住むつもりない』って言う。いつかはわからないけど、地元へ戻ろうという意識はみんな少なからずあるんだなっていうことが、実感として得られました。
ただ同時に、それは結構難しいことだよねっていうのも直観的に感じてました。東京はすごく引力が強い街なので、ヒト・モノ・カネ・情報全部集まってきますし、ややもすると『一旗揚げるんやったら東京へ』みたいな価値観も親の世代から浸透している。いい大学行って東京の大きい会社で働くのが成功、みたいなイメージがあるとしたらなおさら戻るのは難しいですよね。しかも地元で働くってことを意識する機会もないままなんとなく東京に出てきてるので、地元の仕事とか暮らしぶりについては情報もないし、なかなか見えてこない。知らない選択肢って選びようがないじゃないですか。そしたら、みんなの『いつか』はいつまで経っても来ないんじゃないかなって」
求人情報について京都の企業からヒアリングを行う田村さん
みんな「いつか」とは思っている。だったらその「いつか」のために今からできることをしようと、移住に向けた情報収集が仲間内で始まりました。宣言しておかないと自分自身が引力に負けてしまう可能性もあるからと、「京都移住計画」という名前も生まれます。Facebookの非公開グループから始まったこの活動について、ちょっとした場でプレゼンしたところ、多くの共感も得られました。東京サイドの「いつか地元に戻りたいという」ニーズに手ごたえを感じる一方、地元サイドでも優秀な学生が東京に出て行ってしまうという企業の声があることに思い当たります。
「戻りたい人達がいて、その力を必要としている企業があるなら、戻れるようにしたい。地域経済に対しての貢献にもなるし、空き家解消にもつながるし、子育てや介護みたいなライフイベントも地元でやった方がアドバンテージあるやん!とか……言い出したら結構、いいことしかない気がしたんですね(笑)
人が戻って来ることで、みんなにとっていい状態が生まれる。これめっちゃやりたいことだな、ってかなりワクワクしてきた自分がいたんですよ」
当時、転職のキャリアカウンセリングをしていても、自分が所属する会社の求人情報しか紹介できないことに限界も感じていた田村さん。京都を拠点に、より目の前の人に寄り添う形で企業とマッチングができれば、自分1人が生きていけるくらいの仕事にはなるだろう、という感覚も芽生えていきました。
東日本大震災でゆらいだ、東京で生活することの価値
そしてもう1つ、田村さんのUターン時期を早めるきっかけとなったできごとが、2011年3月の東日本大震災でした。先述のワークショップを開催したのもこのタイミングです。
「東京で生きていくことの危うさみたいなものを、一瞬だけどみんなが感じた瞬間だと思うんです。生活の便利さとか物の豊かさとか、東京で得られる価値って、有事においては意外と役に立たないという状況を目の当たりにしたときに、どこで生きていきたいのか改めて考えさせられました。みんなが『人のつながりこそ大事だ』っていうマインドになったり、社会関係資本のような目に見えないものの価値に意識を向けたりしたタイミングだったように思います。
東京って、仕事があるからそこにいるだけの人達で構成されてるんじゃないかって思ったときに、僕にとって東京で生きていく意味が急速に失われていったというのはあります。
「京都移住計画」のメンバー達。ボランティア的に関わるメンバーも多い
もう少し補足すると、『使命』って言葉あるじゃないですか。命を使うって、自分の時間をどこに、誰に使うのかってことだと捉えたときに、それを東京で使いたくないっていう感覚がすごくあって。お金も同じで、ごはんを食べるっていうこと1つにおいても、適当な飲食店でただ消費することにお金を使いたくない、みたいな感覚です。
だったら、知ってる人とか応援したいなと思う人のところに行って食事をしたり、そういう人から物を買ったり、つながりが見える中で時間もお金も使う方が豊かだなと思って。僕にとって東京にそういう場所はなくて、基本的に消費させられるだけという感覚だった。それは自分にとってしたい暮らしではない。という風に震災をきっかけにどんどん思うようになりました。
当時27~8くらいで、2年くらいチャレンジして失敗したとしても30歳。まだ転職でやり直せることも考えたら、今かなって」
2012年の春、上京時から決めていたより1年早く、田村さんは京都へUターンします。一方プライベートでも、京都と東京で長年遠距離恋愛が続いていたこともあり、Uターン直後に結婚。ライフステージの転換期を迎えました。
新しい働き方を会社と直談判。Uターン後は半分会社員をしながら半分フリーランスでやりたい仕事づくり
Uターン後は、すぐに起業したわけではありませんでした。自身を半フリーランス半会社員と銘打ち、週3勤務の契約社員の形で採用するよう、京都の企業と交渉したのです。
実は東京で勤めていた企業でも、3年目で雇用形態見直しの交渉をしたという田村さん。その交渉内容とは、売上目標はそのままに、新卒と同等の給与でボーナスも不要、正社員だったのを契約社員にする代わり、部下の教育業務と全ての会議体から外れて週3勤務にしてほしい、というものでした。
「2011年の暮れくらいに、ダニエル・ピンクの『フリーエージェント社会の到来』っていう本を手に取ったんです。2001年にアメリカで出版されたので、約10年後に手に取ったわけですけど、当時ちょうど東京でもフリーランスやノマドワーカー、コワーキングみたいな働き方がぽつぽつ出てきていた。この流れは加速度的に進むんだろうな、そういう働き方もいいな、と思えたので、雇われない働き方にチャレンジしてみたかったんです。
これから多様な働き方を認める未来が来るんだから、人材業界にいる我々から変えていかなきゃいけないですよね、と。僕としては結構筋が通ってていい提案だと思ったんだけど、当時はなかなか理解されなくて。何言ってんだみたいな(笑)」
更に大阪支社に転勤したいという要望も加わったため、やはり受け入れられないということになり、退職してUターンを選んだという背景があったのでした。
株式会社ツナグムでは、個人の働き方に即した事業づくりを行う
それでも懲りずに京都の企業でも交渉を行い、プレゼンを重ね、雇用契約書も自ら作成して週3勤務を勝ち取ったのでした。Uターン後の1年間は、週3勤務でベーシックインカムのように収入を得つつ、残りの時間をまちづくり系の仕事に充て、徐々に起業へとシフトしていきます。
「食べていくための仕事をライスワーク、やりたい仕事をライフワークとすると、戻ったときは全体の収入の8割くらいはライスワークでした。具体的には採用のコンサルとか、転職エージェント、大学のキャリアデザインの講師みたいな、今まで培ってきた経験やスキルを活かした得意分野の仕事をやっていました。残りの時間でライフワークをやっていって、それをどんどん食える仕事にしていく移行期が3年ぐらいですかね。それが2015年に会社になったという流れです」
移住者の奪い合いじゃない、インターローカルな未来があっていい
会社を運営する仲間との出会いもシェアハウス時代のつながりだったり、起業後も「こういうことやりたいんだけど」という相談に応えることで事業化したりと、まさにつながりが見える中で価値を生んでいるのが、田村さんが代表取締役を務める株式会社ツナグムです。
現在は「人と人、人と場のつながりを紡ぐ」をコンセプトに、シェアオフィスやコワーキングスペースの運営、京都府内の移住促進、商業や起業支援など、様々な人の働き方や生き方に携わる事業を展開しています。冒頭で紹介した通り「京都移住計画」の活動も、移住者の居場所づくりをサポートするイベントの定期開催、地元ならではの求人情報の提供、暮らし方がイメージできるような見せ方にこだわった不動産情報の紹介と、「居・職・住」の3つを網羅した事業として立ち上げから7年目を迎えました。
さらに、地方出身の学生がUターンしてキャリアを積むようなロールモデルと出会える「ミーツ・ローカル」事業など、学生の街と言われる京都ならではの新たな事業も生まれています。
2019年に各地の移住計画が集まり、「現代版参勤交代」を開催
「◯◯移住計画」も、2019年6月現在では21地域に広がりました。各地でそれぞれの活動が展開されている他、ゆるくつながりながら「みんなの移住ドラフト会議」や「現代版参勤交代」といった東京と各地域とを結ぶイベントも開催されています。
「東京から地方へという座組にとらわれすぎず、ローカルからローカルへの動きが作れていくとおもしろいんじゃないかと思います。例えばお茶っていう切り口で鹿児島と京都をつなぐとか。同じ産業に携わるライバルや仲間と出会うことで学び合えるコミュニティになっていくと、よりお互いの地域にとっていいんじゃないでしょうか。奪い合いじゃない、そんな流れも見えてきた気がします」
普通なら受け身になりがちな立場でも、なりたい未来を念頭に、交換留学やインターン、会社との直談判など、常に意志をもって行動を起こしてきたことが田村さんのキャリアを切り拓いていったように感じます。
次は自分も!と思われた方、まずは行きたい(生きたい)地域の情報収集から始めてみませんか。
この特集の他の記事はこちら
>> ローカルキャリアの始め方。地域で起業した経緯と始め方をクローズアップ!
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