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東北のリーダー・右腕が語る「地域の資源を生かして、新しい商品・サービスを生み出す仕事」(中編)

2015.04.03 

なぜ今、東北のスタートアップの現場へ飛び込むのか。東日本大震災から丸4年を目前とした2015年2月23日、NPO法人ETIC.では「東北のリーダー・右腕が語る! 連続セミナー第4回?地域の資源を生かして、新しい商品・サービスを生み出す仕事?」を開催しました。

 

「右腕」とは、東北をフィールドに新しい事業・プロジェクトに取り組むリーダーのもとに、ETIC.が取り組む「右腕プログラム」によって送り出された意欲あふれる若手経営人材のこと。彼らはリーダーたちの「右腕」となり、その事業を支えています。

 

前編では、NPO法人東北開墾日本初の食べる情報誌「東北食べる通信」プロジェクトに参画されていた鈴木英嗣さん、一般社団法人東の食の会・「東の食の会」プロジェクトに参画されていた小沼利幸さん、そして現役右腕として気仙沼水産食品事業協同組合・「リアスフードを食卓に」プロジェクトにて活動中の小林 幸さんが、それぞれリーダーたちの「右腕」として現場で取り組まれてきた仕事の概要をお伝えしました。

 

中編では、3人が「右腕」を選択肢として選んだ理由、実際に経験して向き合った壁や手ごたえについてお伝えします。

>>前編はこちら:東北のリーダー・右腕が語る「地域の資源を生かして、新しい商品・サービスを生み出す仕事」(前編) 「リアスフードを食卓に」プロジェクト

東北に「お金を生み出す仕組み」を

山内:皆さんは、そもそもなぜ「右腕」を選んだのでしょうか。小沼さんはもともと証券会社勤務でいらっしゃいましたよね。

 

小沼:そうですね。証券会社にいた期間が一番長いですね。

 

山内:証券会社と食の会社ってまったく違う分野ですよね。

 

小沼:そうですね。でも、茨城出身というところで近隣の商店街のシャッターが閉まっている現状には問題を感じていて、いつか自分の出身地のために働きたいなという思いがずっとあったんですね。 ただ、ボランティアという言葉から連想されるような働き方よりも、よりお金を生み出すような働き方で役に立っていきたいと考えていました。

 

そんななかで震災が起きてしまって、その状況から色々新しい動きが生まれてくるだろうなと想定はしていましたが、やはり僕自身は、お金を生み出す部分に関わっていたいという想いがあった。 やっぱり、「お金を生み出す仕組み」を人のスキル含めてどんどん東北に送り込んでいったり、共有したりしていかなきゃなと感じていますね。

 

そんな想いもあり、震災直後は別の団体で、緊急支援物資を被災地に運ぶための運送会社との調整とか、産業復興を支援する基金の立ち上げに携わったりしていました。 東の食の会は2011年、震災直後に立ち上がっています。先ほど200億円という数字を申し上げましたけれども、そういった「ビジネスを生み出していくんだ」という団体のミッションが、僕のもともとの想いと合致したことが一番でした。僕はもう今年40なんですけど、社会人経験が残り20?30年あるなかで、自分を賭けるとしたらここだろうと。 パネルトーク風景 山内:団体のミッションに想いが合致したということでしたけど、もともと将来的にこんな仕事をしようとか考えていたものがあって震災がきっかけになって踏み出したのか、それともまったくガラっと変わったのか、そのあたりはどうなんですか?

 

小沼:僕の出身地は茨城で、農産地としても有名な地域なんです。そのことをすごく考えるなかで、やはり食べ物とビジネスは切っても切れない関係であるというのは体感的に感じてはいたんですね。そこから、どうせやるなら「食」かなと。そして首都圏の土地勘はあるので、自分にできることは販路作りだろうなって震災前にも感じていました。

 

山内:「いつかは地元に帰ろう」とか、「地元とつながる仕事をしよう」と思われていたということですか?

 

小沼:そうですね、頭の片隅くらいにでしたが。より、リアルに仕事なるなって感じたのが震災後、あと東の食の会のときかなと。

ちょっと、自分の出番なんじゃない?

山内:鈴木さんはいかがですか?

 

鈴木:そうですね……僕は「旅が好き」ということと「編集者になりたい」という想いがあったので、出版社勤めは自分が望む状態そのものだったから、最初は下見を何度も重ねるところから始めたんですけど。

 

一番大きいきっかけは震災のときだったかなと思います。 出身は福島県いわき市で、震災による被害もそれなりにあった地域です。当時勤めていた会社は旅行情報誌を制作していて、もちろん東北エリアも作っていたんですけど、震災をきっかけに被災地エリアの図書の制作は全部中止にという判断が下されました。 そのときに釈然としない気持ちになって。

 

もちろんしょうがないことではあったんですけど、モヤモヤ感が残ったまましばらく働き続けていました。今振り返ってみると、そのモヤモヤを発散する意味も込めて東北にボランティアに行ったりもしていましたね。でも、それでもずっとモヤモヤは残りました。 それで「今後はどうしようか」というときに、「右腕」の募集で東北から新しいメディアを作るぞって言ってる変な団体があると聞きつけて。「ちょっと自分の出番なんじゃない?」みたいな感じでしたね、最初は。

 

山内:なるほど、「これならば自分の力を活かせる」という想いが強かったんですね。

課題を乗り越えるための事業

山内:派遣期間が1年終わって、今はどうしてらっしゃいますか?

 

鈴木:今はフリーランスで、メディア開発であったり事業開発であったりを、「旅」というテーマでやってます。その中で東北開墾とも一緒に仕事はしています。 東北開墾の1年目って、「東北食べる通信」を軌道に乗せていこうという流れだったんですね。いまは「都市の消費者の方に生産現場を訪れてほしい」「旅をしてほしい」というところについて、団体からも生産者の方からも非常に強く声があがっていて。それをメディアで実現するというのが僕のテーマのひとつなんです。

 

だから、旅っていうのも「また出番が来たぞ!」となりまして。一から作り始めなきゃいけない状況だったので、僕はいったんフリーランスという立場で旅の事業を専属でやらせてほしいとお願いしまして、それをやりつつ他のメディア関係の仕事も今はしています。 鈴木さん 山内:自分でメディアを立ち上げるフリーランスですね。独立するということは想定されていたことなんですか?

 

鈴木:まったく想定していませんでした。起業にものすごく興味がある人間ではなかったんですけども、今振り返ると、先ほどお話した「震災のときにモヤモヤがずっと続いていた」という部分だったのかなと思うんですよ。そのモヤモヤっていうのは、結局「マーケットインっていう発想を乗り越えられなかった」っていうところの自分自身の問題があったのかなって思ってます。

 

山内:乗り越えられなかった、とは。

 

鈴木:結局、前職で被災地エリアの本を発行しないとなったとき、マーケットベースで考えれば賢いと思うんですけど、僕自身はその課題を放っておいていいのかなってすごく思ってしまって。 東北開墾に入って学べたのは、本質的な課題に対して事業を作ることで解決していこうという姿勢でしたね。そういう発想が正直前職ではなかったので、「なるほど、起業というのはこういうことか」と。

 

「お金持ちになりたい」とかそういうことだけじゃなくて、「課題を乗り越えるために事業を創る」のかと。そこがすごく勉強になりました。右腕期間が終わっても「自分にやらせてください」って言い出せたのは、そこで得た自信が大きかったかなと思っています。

 

山内:それは本当に嬉しいですね。僕らとしてもそういうふうに、機会を活かしていただけたのはとても嬉しいです。

東京と気仙沼をつなぐような働き方を

小林:3月11日、私はちょうどおにぎり屋さんで働いていて、地震が起きたあとは皆で歩いて帰りました。家に帰ってテレビをつけましたら、大変なことになっていて。その後、物資が届いてご飯を食べてる皆さんが、コンビニのおにぎりをアルミで包んで直火で温めながら「こうするとおいしいのよ」って食べているニュースを見たときに、おにぎり屋で1個250円前後のおにぎりを売っていた自分に、「いったい何をしてるのか」と思ってしまって。

 

それから「食で東北に何かしなきゃいけない気がする」という思いを持ったまま、なんとなく飲食の仕事などを続けてきたのですが、「やっぱりこれではいけない。何かをしよう」と決心して転職活動を始めたんです。 最初は東北に限らず、地域に入り込めるような仕事を探していました。右腕はそれまで知りませんでしたし、見つけたのは本当に偶然でした。鈴木さんではないですけども、リアスフードの求人を見つけたときは「私にはこれしかない!」と思いましたね。応募して1か月後には右腕になっていました。 小林さん 山内:今、鈴木さんと小沼さんのお二人は東京で働いてらっしゃいますね。右腕は、現地に入る方もあれば、お二人のように東京で働かれる場合もある。小林さんの場合はちょっと変わってますよね。

 

小林:そうですね。私は東京を拠点としながら気仙沼に通っています。右腕プログラムは現地に1年間入り込むような募集が多かったのですが、実は私には現地に入り込む勇気がなかったんです。1年間、地域に移住する勇気がなくて。 「こんな私が応募していいのか」という気持ちをリーダーに伝えるとき、募集要項の「勤務地は気仙沼・仙台・東京」という文言を見つけて。「これはいったどういうことだ」と確認したら、「どこでもいいってことだよ」と答えていただきました。そのときの「あなたがどこにいても気仙沼のための仕事を作ることができる」っていう言葉には良い意味でショックを受けましたね。

 

じゃあ東京と気仙沼の両方をつなぐような働き方をしようと、今に至っています。具体的には、東京に自宅がありながら、月の1/3は気仙沼に滞在し、仕事をするというスタンスです。現在は10日から15日、出張というかたちで滞在してますね。

 

山内:先ほどマーケットインっていう話がありましたけど、地域側からしてみると作り手の都合で物が作られるということに陥りやすい中で、ちゃんと消費者の反応を理解しながらコミュニケーションして商品開発していくことを丁寧にやっていきたいっていうのが、今回のプロジェクトのねらいでもありましたね。そういう意味でも、東京と地方を行き来しながら、いかに気仙沼の中に入っていくかが大事な役割なのかなと思います。

食を介せば、おじいちゃんも子どもたちも皆が地域に関われる

山内:先ほど震災前から地域に関心があったというお話がありましたけど、ご出身はどちらですか?

 

小林:私は東京都出身です。

 

山内:なるほど、なぜ地域というものに興味を持つようになったんですか?

 

小林:一番最初のきっかけは、事務所で働きつつ休みの日などに地域活性化のような活動をしていたことですね。 大学は美術系でものづくりには学生のころから携わってきたし、NPOにもボランティア参加してきました。地域に対する興味はもともとあったんです。 横浜の黄金町っていう、アートでまちを再生したエリアがあるんですけど、そこに友人が携わっていて。ちょうど空き物件があるから好きなことやっていいよっていうことになったんですよね。

 

当時私は事務所に勤めていて、コンセプトづくりや飲食店の諸々を勉強していたころで、その物件にキッチンがあったことから興味を持って。ちょっとしたカフェをやろうかっていう感じで参加しました。 横浜には農家さんが多いので、横浜野菜と地元の食材を組み合わせた料理を振る舞うパーティをやったんですよ。地元の商店街の婦人会と協力して一緒にご飯を作ったら、「あなたたち、私たちのまちのためにありがとう」って言ってもらえたことがとても心に残って。

 

“まちづくり”というキーワードにすると専門家が集まりがちなんですけど、食べ物を中心にすればお店の方も子どもも、おじいちゃんおばあちゃんも一緒に集える。つまり、食を介在すると地域に関われる人が増えるんですよね。そう思ったときに、食っていうのはすごく地域活性にとって可能性があるなと思いました。それから、食とまちづくりは私の中で切り離せないものになっていったという感じですね。

 

山内:じゃあ、ずっとテーマとして心のなかに持っていたものを、東北でということなんですね。

 

>「右腕」の経験から3人が学ばれたことは後編に続きます! 「リアスフードを食卓に」プロジェクト右腕募集中!

 

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桐田理恵

1986年生まれ。学術書出版社にて企画・編集職の経験を経てから、2015年よりDRIVE編集部の担当としてNPO法人ETIC.に参画。2018年よりフリーランス、また「ローカルベンチャーラボ」プログラム広報。