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地域のお仕事、いまむかし。(新潟県村上市・草木染め職人編)

2017.03.10 332view 

日本の都会では、急速に失われていった手仕事や職人の技。地域には、古くから伝わる職人の技や生き方が、大切に受け継がれ残されている場所があります。

 時代と共に働き方は変わっていき、時代に合わせた地域のあり方の再編集は再び地域に息を吹き込みますが、そういった新しい語りの中に、古き良きものが深く根付いている姿が地域の魅力の一つなのでしょう。

 このシリーズでは、そんな地域に根付く職人たちの生き方と出会った高校生たちが、大人になってどのように地域で働くようになったのかをお届けします。後半には、職人さんたちの日常も。地域のお仕事、今昔物語はじまりはじまり。

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奈良県吉野郡川上村で、地域おこし協力隊として活動する現在。

現在、奈良県吉野郡川上村で地域おこし協力隊として活動している、神保大樹さん。

 神保さんは、高校生のころに、職人たちの生き方を聞き、その語りを書き残す「聞き書き甲子園」に参加しました。その取り組みを通して、新潟県村上市の草木染め職人・山上さんと出会います。

 「自分の中にひっかかるものが残った。」

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 当時、神保さんは高校3年生。自然を相手にした仕事がしたいという思いが強く、大学に進学するべきか、進路に迷っていました。そうしたときに「聞き書き甲子園」を知り、今後の生き方の指針になるような出会いを期待して、参加を決めました。

神保さんは、新潟県村上市の草木染め職人・山上さんの工場兼自宅を訪ねます。

そこで、山上さんから、昔から受け継がれている知恵とともに、職人として生きる苦労や時代の流れに合わせた変化などを聞きます。

「名人の経験やそこで身につけた知恵は、自分が経験していないことばかりです。聞き書きは、言葉のやりとりを重ねることで、その人の感じ方や考え方、人生になるべく近づく方法なのかなと思います」

 名人の話を聞いて、神保さんは「もっと人や実際の地域に触れる中で、昔から受け継がれてきた知恵や自然をうまく利用して暮らしていく方法を知りたい」と思うようになったそうです。

自分の求めている暮らし方を確かめながら。

神保さんは、京都大学農学部森林科学科に進学後、聞き書き甲子園の卒業生が中心となって活動する「共存の森」に参加します。その活動の中で通った地域が、現在、神保さんが暮らしている奈良県吉野郡川上村です。

 「共存の森」の活動を通して、川上村に通い、地元の行事に参加したり、昔の話を聞いたりしました。その活動の中で、神保さんは「求めているものとは、少し違う」という思いを抱え、悩んでいたと言います。

 当時の神保さんがめざしていたのは自給自足の生活。一方、川上村は吉野林業でさかえた土地。川上村では、林業をメインの産業として、木を売って暮らしてきた歴史があります。山奥の川上村では、田んぼがなく、地域の中だけでは自給自足ができないため、大学生の神保さんが思い描いていた暮らし方とは違うものでした。

 それでも、川上村に通い続けたのは、「また訪ねたい」と思える人たちに出会えたからだといいます。そうした信頼できる人たちのつながりから、神保さんは川上村の地域おこし協力隊として働くことに決めました。

山の暮らしの価値を届ける「やまいき市」。

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川上村では、週に1回、地元でとれた野菜を売る「やまいき市」を運営しています。「やまいき市」では、地元の野菜だけでなく、川上村から流れる吉野川(紀ノ川)流域の生産者から海産物やフルーツを仕入れて販売。買い物ができる場所が少ない地域のため、地元の方たちにも喜ばれています。

 当初は、山の現場に入る林業の仕事を希望していたという神保さん。「やまいき市」に取り組むうちに、野菜を売ることも林業に関係があるということに気づきます。吉野川流域の産品も、川上村の山を通して育まれたもの。しっかり手入れされた森があって、それによって水が育ち、その恩恵を受け取ることができる。そうした林業によって生まれる価値を伝えることにやりがいを感じているそうです。

 神保さんは、林業は山だけで完結しているわけではなく、林業が生み出す多様な価値や可能性があることに気づいたといいます。昔ながらの地域の仕事は、その仕事が暮らしそのものと結びつき、多様なつながりを育んできたのかもしれません。

 地域のお仕事今昔物語、現在編はここまで。ここから、高校生だった神保さんが書き残した、村上市の草木染め職人・山上さんの「聞き書き」をお届けします。

「今」を重ねてゆく

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<注>以下、文章中の年数などは取材当時のものです。

名人・山上茂雄(新潟県村上市)

生年月日:昭和15年12月21日 69歳

職業:染色業 略歴:新潟県北部の村上市で江戸時代から続く染物店を継ぎ13代目となる。化学染料を使った染物をする傍らで、地元の色を出したいという思いから草木染めに取り組んできた。平成3年に「北限の茶染め」の技術開発に関して新潟県知事表彰(技術賞)を受ける。受賞を機に、注文品以外に自ら商品開発をしなければと思いを新たにする。依頼を受けての草木染めのサンプル作り、地元の学校や観光客向けの染めの体験なども行っている。

聞き手・神保大樹(新潟県立長岡高等学校三年)

1 江戸時代から続く染物屋

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山上茂雄(やまがみしげお)です。昭和15年12月21日生まれ、69歳。新潟県村上(むらかみ)市で染屋(そめや)をやってます。うちは1660年代寛文(かんぶん)年間に兵庫県の姫路(ひめじ)からこちらに来たんですね。私で13代目です。今は夫婦二人暮らしですが、3人の娘のうち長女が跡取りとして毎日市内から通ってきて、家族で店を営んでいます。

2 苦しかった気持ちは無くなっちゃうんだろうか

おやじは私が5歳か6歳のころ亡くなったんで、ほとんど母親に育てられました。代々続く染屋で育ちましたから、小さい頃から自分も染屋をやるんだと思ってました。本当は長岡(ながおか)工業高等専門学校の染色科に行きたかったんですよ。でも、遠いし、母子家庭だったから行けなかったんですね。それで地元の村上高校の普通科に進みました。

ところが高校1年のころに母親が亡くなって、高校を辞めるか、丁稚(でっち)奉公をするかという状況になったんです。高校だけは出ておいた方がいいという周りの勧めもあって、村上高校の定時制に転校して、新発田(しばた)市で店をやっていたおやじの兄弟子の所に弟子入りしました。昼間は新発田まで通って丁稚奉公、夜になると帰ってきて夜間部、そういう繰り返しが4年間続いてね。

大変だったか? うん、それはね…。でも苦しかった気持ちは後になると無くなっちゃうんだろうかねぇ。自分は染屋をするんだと決めていましたんでね、技術を身につけるんだという目的を持ってやっていたんで、そういう生活を受け入れられたんでしょうね。苦労を苦労と思わなかったというか。普通に就職して仕事としてやっていたんでは勤まらなかったんじゃないでしょうか。

母が亡くなってからは姉が店を守ってくれました。姉は私より7歳上で、もう高校卒業して結婚していたんだけども、「悉皆(しっかい)」といって注文受けた品を京都に送って染めてもらうという仕事をやっていたのね。取次ぎと言った方がわかりやすいかもしれませんね。自分も注文受けた品を修行先の店に持って行って染めたり、時間があるときはうちで染めたりしていたんで、店はずっと続いていました。

3 小さな染屋は一から十までをこなす

親方はいい人でしてね。怒られたことはあんまりなかったですね。染めの技術も丁寧に教えてくれました。基本的な技術はみんなそこの店で教わりましたね。ただ修行時代は、手なんかも染料で赤くなったり青くなったり。だからバスに乗るときも、吊り革になんかつかまらないでポケットに手を入れたりしてね。同じ年代の女子高生が一緒にバスに乗るわけ。手が染まってるの見られると恥ずかしいからね。でも、職人の手が赤かろうが青かろうが、それは仕事をやってるっていうことだから、別に恥ずかしいことじゃないんだって。話聞くと、暇なお宅だとわざわざ染めの甕(かめ)に手を突っ込んで、仕事してるんだよって見せかける人もいたんだって。

高校卒業後は同じ店で1年間住み込みで働いたんだけども、まだ染めの技術は未熟でね。その一軒だけの仕事では、基本は習ったけども応用が利かないんで。だから他の染物屋さんにも何軒か行って、見習いという形で短期間住み込みで働きました。もしも両親がいて希望した学校を卒業していたら、へたをすると職人にならなかったかもね。見習いとして一からやったのがよかったんじゃないかと思う。デザインから型紙作って、糊置(のりお)きして、染めまでやるような、様々な技術を身につけられたからね。限られた仕事だけやっていたら、結局ものにならなかったんじゃないかな。大きな会社で分業されていれば、一つのことだけやっていればいいんでしょうけど、小さな店では自分のとこで一から十までやらなければ商品できませんから。

4 紺屋(こんや)の白袴(しらばかま)

見習いやってたときは仕事忙しくてね。「自分も商売始めたら、こんなに忙しくて儲かるもんかなー」と思っていたんだけども、それは錯覚だったの。自分が店を始めても、すぐに仕事が来るわけないからね。スーパーで大売出しのチラシを出せばどんどんお客が来るような、そんな商いのやり方でなくって、信用というのが大事なの。だからお客様が認めてくれるのには何年もかかる。うちは代々染物屋で、昔のことを覚えてくれてるお客様がいたからよっぽど助かった。でもせいぜい十年は辛抱しないとだめみたい。自分の方から出かけて行って、こういう染めありませんかって注文を取りに回ったこともある。でも回ってる間に一つ二つ注文もらっても、帰ってきてから今度自分でやらないとだめだしね。それもみんな成功するとは限らない。失敗ばっかり。だからね、やっぱり向いてないんじゃないかと、今度失敗したら染屋辞めようかなーなんて思ったこと、何回もある。ところが染屋辞めたら何するんだろう、それより知らないもんだから。まさかね、金物屋になったり大工になったり、できるわけないしね。そんなで、今度は失敗しないようにって。我々職人は、その繰り返し。

「紺屋の白袴」といって、お客様のものは染められるけども、自分の袴は染められないで白いままなんだという喩(たと)えもあるくらいなんで、うちのことはなかなかできない。注文品受けて、日限に間に合うかどうかぎりぎりのところで失敗したら、もう寝ることもできないで夜なべしてやるってこともありましたから。そんなことで、自分で店を始めて十年ぐらい経ってから、ストレスで胃をやられて切ったんです。今になればそんな無茶な注文取らないで楽しみながらやってますけども、そのときは生活がかかってたからね。家族も養わなければならないし。仕方なかったんでしょうね。

5 たどり着いた村上の色「北限の茶染め」

今も昔も「萬(よろず)染物」という看板を掛けてるんですよ。萬っていうと、何でも染めるってことね。あれができないこれができないなんて言われない。それが今の草木染めにもつながってるかもしれません。草木染めは地元村上の色を出したいなぁという思いで始めたんですよ。いろいろ試験して、村上のお茶にたどり着いたわけ。お茶屋さんから暖簾(のれん)染めてくれって言われたときに、お茶を使って染めたらどうですかって言ったのが始まりなんだけどもね。お茶を商品にする段階で機械にかけたりふるいでふるったりしますと、粉が出るんですよ。ところがせっかくそういう粉が出るのに、畑に戻してしまうとか、産業廃棄物扱いしていたのね。それをお茶屋さんからもらってきて、煎じて、つまり釜で煮て、その液を漉(こ)したもので染めるんです。漉した後に残ったお茶は、また畑に戻せば肥料になります。

商品を売るときは、自分の染めたものを見てもらいたいという気持ちはあまり無いんですよ。それよりもね、お茶染めの染物を通して村上には北限のお茶があるんだということを知ってほしい、村上を知ってほしいんです。

6 染めの手順

染めの最初の工程は、模様をつける場合は「糊置き」ですね。布の上に型紙を置いて、ヘラを使ってもち米でできた糊を付けていきます。そうすると、糊のついた部分だけ染まらないようになっているんです。糊置きをしてから乾かして、「地入(じい)れ」というのをやるんですよ。模様がにじまないようにするために、地入れ剤を引いて乾かすんです。昔は豆汁(ごじる)といって大豆をすった汁を引いてました。それから染料を引くんです。刷はけ毛で「引く」という言い方しますね。染めるわけです。化学染料の場合は一度でいいんですけど、お茶の場合は3回から4回やって、その度ごとに乾かします。

次に、化学染料の場合は「色留(いろど)め」をかける。薬品を使って、染めたものを水洗いしても落ちないようにするんです。草木染めの場合は「媒染(ばいせん)」に入れるわけですね。媒染剤というのは、水に溶ける金属塩で、色を留めて発色させるんです。例えば酢酸(さくさん)鉄を水に溶かしたものを使うと、お茶に含まれるタンニンと鉄が化合して、グレー系の色になります。媒染剤によって発色が違ってくるんですよ。染料に使う草木の色がそのまま出るわけではないね。

草木染めの場合は、媒染をやって乾かしてから、「蒸し」をかける。蒸し箱という木の箱に入れて、下から蒸気をあてるんです。そうすることで媒染剤が反応して発色します。蒸したら今度は「水元(みずもと)」です。水につけて糊をやわらかくして、それを刷毛で落とす。ブラシって言ってもいいでしょうかね。糊を落として、水洗いしても色が出なくなったら、脱水して干し上げます。最後に蒸気をあてて仕上げるんです。その後仕立てをして、法被(はっぴ)とか暖簾(のれん)とか商品の形にするわけです。それぞれの工程の前に、糊を調整したり、染料を溶かしたり、地入れ剤を合わせたりと、下準備もありますね。

7 染屋を続ける苦労と喜び

※ この節の話し手は奥さんの玲子(れいこ)さん

仕事は注文品がほとんどですね。あと染めの体験をしたいという観光客の方を受け入れたりとか。うちは3人でやってるんでそんなに大量にはできないんですよ、えぇ。今もらってる注文は、法被、あと風呂敷。それは化学染料。やっぱりまだ草木染めでは食べられないんですよ。食べていけるほど仕事がないというか。それが現状です。新潟市とか県外の人たちには知られてるんだけど、地元の人たちから注文もらうなんてことあんまりなかったのね。だからたまに地元の人が「法事の引出物、お茶で染めて」なんて言ってくれると、ほんっとに嬉しかったです。

草木染めは化学染料と違って、おんなじ色は二度と出ないんです。例えばセーターの糸染めるんだったら、足りなくなったなんて言ったらもう同じ色にならないんで、多めに染めるというのが鉄則だったみたいですね。こういう仕事続けられるのも、たまーに、よく染まったーという感動があるからなんですよ。そういう喜びがなければ、お金だけのことを言っていたらね、辞めてたんじゃないでしょうか。草木染めだとほんのちょっとしたことで変わってしまうんで、それが難しさでもあり、どういう変化を起こすかなぁという楽しみでもあるんですね。

8 染めを重ね、年月を重ねた味わい

※話し手は再び名人の茂雄さん

染物は、年数経ってくるとだんだん色が褪(あ)せてきます。どうしても色はみんな変化しますんで、紫外線や洗濯によっても変わってくる。化学染料だと極端に見た目が悪くなってしまうんだけども、草木染めの場合は「枯れる」といってだんだん落ち着いた色になりますね。同じ藍染(あいぞめ)でも、最初「甕覗(かめのぞき)」という色から「水浅葱(みずあさぎ)」、「浅葱(あさぎ)」などいろいろな濃さの色があるんですよ。3、4回染め重ねて紺色になっているんです。だから、だんだん色が褪せるようになると、染めた時とは逆に薄い色に戻っていくんで、それもまた味があるわけです。ところが、化学染料は最初からこの色を出そうと思ったら、出せるわけ。そうすると見た目の悪い色の褪せ方になっていくんですね。

藍染めして何年も経って色もだいぶ変わってきてるものを、こんなの売り物にならないなと思ってその辺に下げといたら、お客さんがこれ欲しいって言うのね。「いやこれ売り物でないですよ」って言ったら、この色合いがいいんだと。ぜひ売ってくれって。まあ安く売ってあげましたけどもね。年数たって、「枯れた」あんばいがいいんだって。そう言えば、藍染め頼まれることあるんですよ。古ーい洗いざらしの持ってきて、この色にしてくれと。「年数経ってこんなんなったんだから、最初からこんなふうにはできませんよ」って断るんだけども。化学染料だったら最初からその色目だけは出せます。でも藍染めは何回も染め重ねてあるわけで、それが年数かかってこの位置になる。最初からこの色なんてことできない。だから年数っていうのは大事だと思う。

9 城下町村上に残る町屋

村上にはうちのような町屋造りの家が何十軒か残っているんですけど、だいたい150、160年経っています。うちは間口が四間(けん)一尺(約7.5m)、奥行きが40mくらいあるんです。間口が狭くて奥行きが長いのが一般的ですね。履物を履いたまま表から作業場まで行けるような通りがあるので、お客様が来たときは作業をしていてもすぐに応対できるんです。

昔の町屋は竹小舞(たけこまい)という屋根だったんです。ぎっしりと敷かれた竹の上に、木羽(こば)という木の板を置いて、それを飛ばないように石で押さえていたんです。今は瓦になって、竹小舞は見かけないですね。町屋の場合は隣の家とぎりぎりくっついてますんで、茅葺(かやぶき)屋根はできなかった。それでそういう造りなんですね。でもだんだん木羽を作る職人もいなくなって、うちでは薪も焚かなくなったら、屋根がやはり傷んできて、40年くらい前に瓦に替えたんですよ。うちの場合は必要最少限で手入れをしてこのままで暮らしていますけど、傷んだ家を新しく建て替える人もいますね。手入れは、壊れたところを直したり、住みやすいように新しく戸を立てたりと、大工さんに頼んでやってもらっています。

不便な点もありますよ。町屋の土間、廊下ね、トイレやお風呂にも履物を履いて行かなければいけない。それに段差があるでしょ。年齢重ねるに従って、なんぼ平らなところでも、畳のへりにでもつまずいて転ぶことあるんだからね。若い時はもっとモダンな造りにしたいと思ったこともあるんですよ。店の様子も今と違ってね、ベニヤ板で天井と周りを囲って、クロス張りにして、もう全然今とはわからないくらい。でも店だけ不自然だったのね、戸を一つ開けると奥の方と全然違って。そんなときに「町屋再生プロジェクト※」ということで、元の造りに変えてみないかと言われて、ベニヤも外し、クロスも取って、元の姿に変えたんですけどもね。訪ねて来てくれるお客さんも、「ああうちも昔こんなだったんだぁ」なんて懐かしんでくれるようになりましたんで、やってよかったと思う。

今はお金さえあれば何でもできるという時代かもしれないけれど、お金で買えないものもあるわけね。それは、年代。何十年、何百年と経ったものを、お金さえ出せば買えるかっていうとそうではないと思う。今まで残してくれたこういう古い家でも、これで160年ぐらい経ってるんで、新しくするには簡単だけども、残せるものだったら残しておこうかなぁと思って。それは、次引き受ける子どもたちの考えが、これから優先すると思うんだけどね。

※:市民から寄付を集めて町屋の外観再生に補助金を出すという事業。シャッターやサッシで近代化された町屋の外観を格子窓や木の外壁に変えて歴史的な城下町の町並みを整えることで、村上の活性化を図っている。平成16年から始まり、平成21年度には「あしたのまち・くらしづくり活動賞」で内閣総理大臣賞を受賞。 水元を行う作業場

10 村上と祭り

村上の場合ね、7月が一年の始まり。お祭りから一年が始まるんです。私も屋台を引きますよ。うん、毎年。祭り前の5月から6月には、各町内の法被を染めるんです。ほかの人は、どこで染めたかというのは全然わからないんだけども、我々は、あの人着てるのはうちで作ったんだなって思って見てるんです。我々職人はね、裏方なんですよ。祭りを支えてるの。法被を着る人が、主役。それを作るのが、裏方の我々。だからね、法被を着る人がいかに目立つというか、粋に見えるか。そういうのがね、我々の生きがいなんですね。

【取材を終えての感想】

僕は、世の中が作り物のようによそよそしく空しいものに感じることがあった。自分は何も善いことをしていないと思うと、悲しく、辛かった。社会では様々な問題が起きている。環境問題、戦争や貧困、痛ましい事件、今の世の中はどこかおかしい。こんな悲しみや苦しみがあるのは僕はいやだった。このままでいいとは思えなかった。だからまず自分が変わろうと思った。社会とは一人一人の人間でしかないのだから。

自分はどう生きればよいのか。高校に行って、勉強して、大学に行って、それが善いことなのか。学校で勉強することに何の意味があるのだろう。人の心ははっきりと言葉にできるものじゃないし、自然は数字だけで表せるものじゃない。勉強して「わかる」ようなこと以外に、もっと大切なことがあるのではないか。あやふやで、形にならない、もっと柔らかいもの。ほら、森の名人たちは大学なんか出ていないけれど、深い知恵を持って、自然と共に暮らし、人のためになる仕事をして、自分の信じる道をまっすぐ歩んでいるじゃないか。

自分の思うままに生きたい。ただしそれは自分勝手ということではない。なぜなら自分の幸せと他人の幸せは別のものではないから。素直に、純粋になることができれば、思い悩むことなく人の役に立って生きることができると思った。しかし同時に別の考えも起こる。そんなものは甘ったれた幻想でしかない。現実の社会の厳しさ、自然の厳しさを知らないから言っていられるのだ。二つの考えにはさまれて、僕は行ったり来たりするばかりだった。

そんな中で名人の山上さんを訪ねた。山上さんは事前に見た写真の印象通り穏やかな人だったので、僕は安心した。築160年という町屋の中は、温かみのある落ち着いた雰囲気で、囲炉裏のそばで村上特産のお茶を飲みながらお話を聞けたことは、しみじみとうれしかった。お話を聞く中でわかったのは、山上さんもまた、もやもやとした思いを胸に抱き、時代の波に揉まれながら生きてきたということだ。行きたかった学校に進めず、働きながら送った高校時代には、自分の境遇に納得できず悩んだことがあっただろう。また、若いころには注文に追い立てられてストレスで体を壊してしまった。名人も決して超然として生きてきたわけではなかった。

「苦しかった気持ちは後になると無くなっちゃうんだろうかねぇ」という山上さんの言葉には、その通りだなぁとうなずけた。僕も悩む中で、自分の心はその時その時で違うものだなとよく感じた。辛い時って、辛い。でも元気な時にその辛さを思い出してみても、あんまり辛くない。その時の自分が感じたこと考えたことは、ただその時にしかないのだ。町屋が経た160年という時間がお金に代えられないのと同じ。自分が生きる一瞬一瞬は、他の何ものでもない。

聞き書きを終えて、僕の心の中がすっきりと晴れたわけではない。心をゆれ動かさずに進める道を見つけたわけではないから、これからも悩むことがあるだろう。悩みながら生きるものだと割り切れたわけでもないから、辛くなることもあるだろう、腹が立つこともあるだろう。いろいろな時がある。本当にいやな時がある。本当によかったと思う時もある。それはどういうことなのだろう。わからない。わからない中で、その時限りの様々な思いを抱いて生きてゆく。他の何ものでもない、その一瞬一瞬の自分を、「今」を重ねてゆく。

<参考にしたホームページ>

1.むらかみ町屋再生プロジェクト

2.財団法人あしたの日本を創る協会

この記事を書いたユーザー

鈴木 まり子

鈴木 まり子

1988年生まれ。大学卒業後、出版社で4年間編集の仕事に携わり、小学生向けの書籍づくりなどを担当。2016年春から、三重県尾鷲市九鬼町という小さな海辺の町に暮らし始め、編集・執筆・宿やワーキングスペースの企画・運営など活動中。

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