3月初め、一人の女性の話を聞くため南相馬市小高(おだか)を訪れた。昨年2月、この地へ約10年ぶりにUターン移住した根本李安奈(ねもと・りあな)さん、26歳。現在、株式会社小高ワーカーズベースに勤め、若者向け起業支援・人材育成プログラム「NA→SA(ナサ)プロジェクト」の事務局を務めている。
根本李安奈さん
小高は2011年の東日本大震災・原発事故による避難で5年間、人が住めなかった区域だ。いまでは旧避難区域の復興も進み、少なくとも外見上、「被災地」の面影は消えつつある。でも、ここで「あの日」を経験した人たちの記憶が消えてしまうことはない。
震災から11年が経ち、当時子どもだった世代は大人になった。彼らは、いまだからこそ語れることを持っているのではないか。彼らの11年には大人たちのそれとは質の異なる「濃さ」があったのではないか。それが知りたくて、現時点では同級生の中でおそらくただ一人、故郷の小高に戻る選択をした根本さんに取材をお願いした。
カメラを向けることの怖さを知った、高校時代の原体験
2時間の取材を通して印象深かったのは、根本さんの類まれな「意志の強さ」だった。彼女はおそらく、中学時代から少し異色の存在だったのかもしれない。なにしろ当時の夢は脳科学者になることだったそうで、周りにそんな話をしても「あんまり響かなかった」と笑う。
その夢は、中学3年のとき大震災を経験したことで大きく変わる。「映画を通して地域の課題を解決したい」と考えるようになったのだ。もともと映画は好きだったというが、それを地域課題の解決に結びつけた理由はこうだ。
「映画監督になればロケ地を選べる。被災地でロケすれば、地域にお金が落ちるし観光地にもなるでしょう。だからそういう技術を身につければ地域に貢献できると思った」
16歳にして既にそこまで具体的にイメージしていた根本さんは、避難先で転入した相馬高校の担任の先生に映画監督になるにはどうすればいいかと尋ね、日大芸術学部を目指すことになる。さらに、いまのうちから映像を学んでおこうと放送部にも入った。
▲根本さんの高校時代
3年生のとき、その相馬高校を映画監督の是枝裕和氏が訪れるというNHKの番組企画があった。そこで根本さんは初めて、「見えぬ壁」という15分のドキュメンタリーを制作する。高校の同級生3人にインタビューし、撮影したものだ。
「同級生の被災状況はいろいろでした。親族をたくさん亡くした子もいれば、まったく避難した経験のない子もいて。心の傷がある子は、その痛みを言葉にしないでいたら辛いんじゃないかと思ったけど、それを尋ねること自体が暴力的なような気もして、日頃は聞けなかったんです。私自身、震災について思うところを話したくても誰にも話せず、自分に蓋をして3年間過ごしてきた」
その壁を乗り越えたいと思った根本さんは、番組企画を機に勇気をもって同級生にカメラを向けたのだった。
「ここで向き合っていいんだと自分のなかで整理をつけた、というか。映像をつくるのは楽しいけれど、同時にカメラを向けることの怖さも知り、めちゃくちゃ悩みながら作りました。同級生たちにカメラの前で話してもらうことはできたけど、結果としてそれが彼らにとって良かったのかどうかは・・・わからない。難しいですね」
おそらくその答えは誰にもわからない。でも根本さん自身がこの作品づくりを通して成長できたことだけは確かだろう。
葛藤しながら被災地ドキュメンタリーを撮影した大学時代
2014年、根本さんは晴れて東京の日大芸術学部に進学した。でもここで4年間過ごすうち、自分の適性や目指していたものと現実とのギャップに気づいていく。
「周りは純粋に映画を愛する人たちばかりでした。彼らの映画製作はまずストーリーがあって、それに合うロケ地とキャストを決めて作る。でも私は逆。もともと撮りたい場所があって撮りたい人がいて、それを物語の形で上手に見せたいと思っていたんです」
そんな自分の動機は不純だったのか、と自問し始めた根本さん。映像では具体的に何を見せたかったのだろう。
「被災地の現状というより、被災前の姿ですね。小学校くらいのときの記憶に残っている、自分の“原風景”みたいなもの。通学路とかその脇の田んぼとか、友達の家とか。その前で演じるのは役者かもしれないし、物語は楽しい話かもしれないけど、小高や他の被災地でロケすれば、そういうものを映り込ませることができると思ったんです」
根本さんは最初の3年間、自分を信じて被災地をテーマにしたドキュメンタリー作品を撮影した。
「被災地に通い続ける予備校の先生の姿を追ったり。小高の避難が解除になったときは、やっぱりカメラ回さなきゃと思って(帰還の準備をする)祖父の姿を撮ったり。でも、何をメッセージとするのか消化しきれないまま撮っていたから、自分でも苦しかったし、授業の中でもなかなか評価を得られませんでした」
また、根本さんの映画はいずれも一人で撮影して一人で編集するスタイル。他の学生たちが目指す商業ベースの映画製作とは違った。
「4年生のとき初めてシナリオを書いて役者をたてて、チームで作ることを試してみたんです。やってみてダメなら諦めがつくと思って。作品には仕上げましたが、やっぱり自分にはハマりませんでした」
▲大学時代の根本さん
そこで根本さんは映画監督の道をいさぎよく断念する。就職活動では最初、CMディレクターを目指した。だが、就職試験で出題される絵コンテが描けない。ドキュメンタリーに絵コンテは不要だから描いたことがなかったのだ。「何社も落とされまくって、これは何とかしなきゃと思い」、方向を転換。映像を離れ、都内の広告代理店系の制作プロダクションに就職した。
この時期を振り返って、根本さんはこう総括する。
「被災地を撮影し続けながら、このテーマから離れたいと思ったことは何度もありました。そういう映像を作ってどうしたいのか。多くの人に見てほしいとは思いつつ、上映のための積極営業をするわけでもない。大きなコンペに出すわけでもない。結局、それは(震災・原発事故の体験を)自分なりに整理し、咀嚼して消化するために必要な作業だったのかなと。そうやって今は納得できています」
東京での「修業」は7年の予定がコロナ禍で…
2018年4月、根本さんの社会人生活が始まる。就職先の制作会社ではイベントやプロモーションの仕事を担当した。深夜まで働く毎日だったが、「彼らはモノの見せ方のプロたち。その中で勉強して力をつけさせてもらった」という。ただ根本さんは最初から、地方に関わる仕事をしたいという希望を表明していた。復興関連の国のプロジェクトはもちろん、地方自治体の仕事でも東京の広告代理店が関わることはめずらしくない。
「東京五輪関係の仕事で、アスリートと全国の子供たちとの交流イベントがあって。私は北九州と仙台を担当しましたが、とてもいい経験になりました」
そうやって順調に経験を積み重ねていた根本さん。もしも2020年にコロナ禍が始まらなければ、おそらく今でもまだ広告業界にいただろう。「最低7年は修業して力をつけたいと考えていた」からだ。力をつけるのは、その後に独立し、「地方の案件をとりながら好きな仕事をするため」。つまり根本さんは就職した時点で既に、30代のうちに自分の脚で立ちたいという意志を持っていたのだ。
コロナ禍が始まると、ほぼ完全に在宅勤務になった。人と会う仕事が好きという根本さんにはそれだけでも苦しかっただろう。諸々の環境変化で仕事の中身も変質した。すべてがやりにくい状況で1年耐えたが、それでもコロナの終息時期が見えないとわかったとき、根本さんは予定より4年以上早く退職を決断したのだった。
とはいえ、辞表を出した時点で次は何も決めていなかったという。漠然と、「地方の住民自身による地域の魅力発信に自分の力を活かしたい」とは考えていたが、具体的な伝手は全く無し。無謀な決断だったようにも思われるが、その先の行動が根本さんらしい。
まず、「地方には(東京のような)就職口はないから自分で起業するしかない」と考えた。その前提でひたすらネットを調べ、なにか有益な情報を得られそうなところを見つけると片っ端から正面突破でコンタクトしていった。その段階では場所は特に決めておらず、故郷の南相馬市の情報は「ついでに調べてみた」のだという。
小高区の避難指示解除は2016年7月。5年余りの避難生活中、空き家となっていた根本さんの実家は避難先から家族が通って手入れを続け、解除後はまた家族が居住している。公的な支援に加えて、「実家に戻れば生活コストが抑えられる」というのも、起業のリスク低減という意味で自然な考えではあった。
調べを進めるうちに根本さんが出会ったのが、「ネクストコモンズラボ南相馬」(地域おこし協力隊制度を使った起業家育成プログラム)である。さっそく説明会に行き、運営者である小高ワーカーズベースの和田智行さんと面談した。そこで根本さんの次のステップが決まる。2020年末のことだ。
▲小高ワーカーズベース代表の和田智行さんと
小高でチャレンジする人の力になる、という生き方を選択
根本さんが和田さんに会ったのは、実はこれが初回ではなかった。まだ小高が避難区域だったころ、和田さんは既に会社を立ち上げ、小高駅前でコワーキングオフィスなどを運営していた。大学生だった根本さんは知り合いの案内で見学に訪れ、「誰もいないところでコワーキングやるなんて、変な人がいるなあと思ったのを覚えている」という。
和田さんは地域の復興をけん引してきたキーパーソンの一人だ。「地域の100の課題から100のビジネスを創出する」をスローガンに避難区域時代から数々の事業を興してきた。2017年度からは起業家育成にも力を入れ、同年「ネクストコモンズラボ南相馬」をスタート。以来、課題山積のこの地を「またとない挑戦の場」と捉える人たちを惹きつけている。
▲ネクストコモンズラボ南相馬公式サイトより。地域おこし協力隊制度を活用した起業支援プログラムで、これまでに酒蔵兼バー、馬を活用したビジネス、アロマセラピー、まちのIT屋さんなどが誕生している
小高に集まる多くの若者を見てきた和田さんは、根本さんの話を聞いて何かピンときたのだろう。自身で起業するよりも、まず小高ワーカーズベースで働くことを提案したのだった。
根本さんは、それまでも盆と正月に小高に帰省はしていたが、町の中で何が起こり、誰がどんなことをしているか、実はよく知らなかったそうだ。しかし、ここで活動を続けてきた和田さんのような人たちの存在を知り、「自分が起業しなくても、その人たちの力になるという方法もある」と気づく。「この会社に入って貢献すれば、地域自体も良くなると思えた」根本さんは、入社を決めた。
2021年2月、小高で働き始めた根本さんの最初の仕事は、iriser-イリゼ-というハンドメイドガラスブランドの広報だった。その後2021年3月からは、新事業「Next Action→Social Academia(略してNA→SA)プロジェクト」の事務局も担当することになる。
NA→SAプロジェクトは、ソフトバンク、ヤフーなどがサポートする、16~29歳限定の起業家支援・人材育成プログラムだ。和田さんは、この世代を「次の10年」を担う「ゴールデンエイジ」と位置づけ、ここから誕生した100人のチャレンジャーが2030年までに100の事業を生み出すことを目指す。初年度の2021年は、メンターたちの指導のもと1人が実際に起業し、数名が具体的な事業計画を進め、さらに30名ほどが、その前段階となる自己理解を深めたという。
だが、このプログラムで成長したのは参加者だけでなない。根本さん自身も、おそらく参加者と同じくらい変化があったのではなかろうか。彼女はプログラム事務局として、メンターたち「大人チーム」と参加者とをつなぐ役割のほか、自分でもコーチングやメンタリングの一部を担当してきた。相手は主に現役大学生や若手社会人だ。
「最初のころ、参加者に対して『それがやりたいならこうすればいい』とアドバイスしても、相手が全然納得してくれないことがありました。後から、それはやってはいけないことだと知ったんです。私の役割は(答えを与えることではなく)『あなたはどうしたいのか?なぜそう思ったのか?誰のためにやりたいのか?』と問い続け、相手に考えさせて次のステップにつなげることなんだと」
「次回までにこれを考えてきて、と宿題を提示してもやってこない人もいました。私は怒りたくなったけど、メンターの大人たちは全然叱らない。それいいね、がんばれ、とひたすら励ますのです。なぜなら、起業というのは孤独な作業で、できないと怒られるのではやる気をなくしてしまう。あなたならできると応援し続けることが大事なのだと教えられ、私は早急に成果を求めすぎていたと気づきました。1年たってやっと成果が見えて始めて、ああこういうことなんだ、と分かってきたところです」
このエピソードだけでも根本さんが得た学びの価値がわかるというものだ。
あのとき「無力」を感じた世代がチャレンジに踏み出す
根本さんにあらためて、この1年の自己評価を聞いてみた。すると、「このくらいできると思っていたことの15%くらいしかできていない」と厳しい。
「売上増にしても情報発信にしても、広告代理店のときに経験した『こうすればこういう結果が出る』という式が全然当てはまらない。投入した力に対して思った結果が全然付いてこない。もちろん経済的・人的リソースの問題もあります。代理店時代は専門家のチームでやっていたことをこちらでは一人でやるわけで・・・」
それでもきっと根本さんは、これからめきめきと実力を発揮していくに違いない。なにしろ彼女にとってここは、「好きな人たちと好きなように仕事ができて幸せ。同世代の仲間もどんどん増えて毎日が楽しい」という環境なのだから。
とはいえ、小高を含めて旧避難区域の現実は厳しい。ハード面の復興は進んでも居住人口は震災前に遠く及ばない。根本さんは、地域の将来について率直にどう感じているのだろうか。
「市町村ごとに事情が違う部分もあるけれど、最終的には『愛情とエネルギーをもって本気でやる人』がそこにどれだけいるか、にかかっていると思います。いくらハコモノを整備しても、その中に入っている人が価値を生み出し続けなければ、早晩また廃れてしまう」
また、根本さんは「地域課題は、それを課題だと感じている人自身が解決すべき」だという。しかしそれは決して、ヨソモノの出る幕はないという意味ではない。
「どんな地域にも新陳代謝は大事で、出て行く人も入ってくる人も必要だと思います。東京の価値はまさにそこにあるわけで。外に対して課題をきちんと魅力的に見せることで、地域の中に入って課題を自分のものとし、楽しみながら解決に取り組む人をどれだけつかまえられるかが勝負。そこに自分の力を活かしたい」
取材を振り返ると、根本さんは「力がほしい・力をつけたい・力を活かしたい」という表現を何度も使っていた。震災当時の子どもたちは、それを本人が意識していたかどうかはともかく、言いようのない「無力さ」を感じていたのだろうと思う。それをバネに、いま、この世代が動き始めている。
「10代で東日本大震災を経験した若者は現在、20代前後になりました。当時不条理な現状に、何かアクションしたくてもできなかった10代だった子たちは、成長した今だからこそできるチャレンジがあると、私たちは考えています。そして、逆境を経験し、今チャレンジしたいと考えているU29の子たちこそ、被災地域だけでなく、社会全体をアップデートする貴重な人材だと捉え、『ゴールデンエイジ』と呼んでいます」(NA→SAプロジェクト公式資料より)
▲NA→SAプロジェクト公式サイトより
NA→SAプロジェクトは初年度の試行錯誤を踏まえてプログラムを改良し、2年目の募集が始まっている。具体的な事業計画を持つ起業予備軍だけでなく、何をやりたいのかまだ明確に固まっていない層も積極的に受け入れ、徹底して寄り添いながらチャレンジへといざなう。根本さんは、「それがこのプログラムならではの特徴だ」と力を込めた。
彼女の次の11年の話を聞くのが楽しみだ。
<参考>
>> Next Action→ Social Academia PROJECT
※この記事の内容は2022年3月取材時点のものです。
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