これまで取材させていただいた方の中でも、いわゆる「起業家」のイメージに一番近いのが、今回スポットを当てる下苧坪之典さん(株式会社ひろの屋・代表取締役)かもしれません。エネルギッシュな語り口や目力の強さからも、ご本人の口から度々登場した「狩猟民族」という言葉がしっくりくるなと感じさせます。
下苧坪さんは大学卒業後、東北地方でカーディーラーや生命保険の営業を経て、父親の病気をきっかけに岩手県洋野町へUターン。2010年に、父親が経営していた水産加工の会社を縮小・解散した上で、わかめ・アワビ・ウニ等の卸業や、海産物の加工・商品開発を手がける「ひろの屋」を新たに立ち上げました。先日福島で開催された「東北リーダーズカンファレンス2019」にて表彰が行われた「東の食のブランド・アワード」でも、「洋野町のウニ」が第3回グランプリを受賞しています。また、2019年8月から開始したJ.P.モルガン協賛による「東北グローバルチャレンジ」にもひろの屋の子会社「株式会社北三陸ファクトリー」が参画しており、東北の生産者とともに海外事業展開を目指しています。
地方のプライベートセクターでキャリアを積み(C1)、中小企業の経営者となって(B1)、地域や業界全体の改革を視野に事業に取り組む(A)、というのが下苧坪さんのこれまでのキャリアです。下苧坪さんの原動力となっているアントレプレナーシップや海外志向はどのように育まれたのか、水産にかける熱い想いと共にご紹介します。
アントレプレナーシップが育まれた営業マン時代
下苧坪さんの最初の仕事は、ディーラーでの車の営業でした。机に座ってのデスクワークが苦手だったため、人とのコミュニケーション力が重要になる仕事の方が向いているだろうと選んだ仕事でした。主な担当エリアは岩手県・青森県。取り立てて車に興味があったわけではありませんでしたが、数字で評価が出るような仕事をしたいと選んだだけあって、営業成績はメーカーから表彰を受けるほど。自動車新聞にも掲載されました。そして3年半ほど経った頃、ソニー生命保険株式会社へ転職し、営業とコンサルティングに従事します。
「保険の営業は完全歩合制だったので、26歳頃からは給料という形でもらったことはありません。まさに狩猟民族というか、危機感は普通のサラリーマンより何倍もあったと思います。命かけてやってるので、そういう人とつながる機会が多いんです。なんて言うか、目つきが違う友達が多いですね(笑) でもそういう人とつきあう方がおもしろいんです」
会社に所属してはいたものの、「自分の食い扶持は自分で稼ぐ」という強い意志が自然と骨身に沁みるような環境で長年営業を続けてきた下苧坪さん。このときの経験が、経営者としての下苧坪さんのベースを形作っていることが伺えます。
「車も保険も死に物狂いで仕事してました。この、死に物狂いで極めるということが大事なんです。『自分に合わないからやめる』って簡単に言うんじゃなく、自分を会社に合わせて、その中でトップを取ってやるくらいの気概をもってベストを尽くすことで、自分らしさが創られたと思うんです。そこから逃げたらアントレプレナーシップは構築されない。実績を残すということは、やっぱり自分の自信になります」
「いつかは戻る」―長男としての使命感
下苧坪さんの家は、曽祖父から代々水産業を営んできました。3代目となる下苧坪さんの父と叔父の代では、イワシ等を原料とするエビの餌等を作っていましたが、設備投資をしたところで原料となるイワシが取れなくなり、実質上の倒産に追い込まれてしまいます。その後、父の病が重なったこともあり、戻るなら30歳になる前に、と洋野町へUターンしました。
「いつかは地元に戻るだろうっていう、長男としての使命感みたいなものは心のどこかにあったんですけど、まあ、タイミングですね。親父が病気したり会社が難しかったりという状況の中で、『自分がやるしかないのかな』っていう軽い感じです。軽いぐらいの方がいいと思いますね」
はたから見れば大変なシチュエーションに思えますが、もともと実家や親類が水産加工の会社を営んでいたことや、前職で経営者と会う機会が多かったことも影響し、下苧坪さんにとって起業のハードルは普通より低かったそう。水産業界の古い体質を拭いたいという思いもあり、父親の会社を解散してゼロベースから「ひろの屋」を立ち上げます。
いい思いをして暮らせる地域をもう一度
下苧坪さんの原風景とも言えるのが、海水浴客も多く、地域も水産もにぎわっていた、小学生の頃の思い出です。当時は水産業が名実ともに地域の基幹産業。父親が管理するヨットで友達とわいわいバーベキューをしたことは、家が水産業に携わり、北三陸でいい思いをして暮らしてきたことを象徴するような記憶です。水産業を取り巻く状況も変わり、後継者不足を始めとする様々な課題が山積する現在、今までにない挑戦をしない限りそんな光景をもう一度作ることはできない。下苧坪さんにとってひろの屋は、まさにそのような「挑戦」の舞台でもあります。
「『今の状態をキープしてればいい』と守りに入ってしまう経営者もたくさんいますけど、特に地方の経営者はアントレプレナーシップ―つまり、新しいものを創っていく、開拓していくという精神が全て。
僕の場合それは、新しい水産を創るということですね。業界のグレーゾーンの多い部分を見える化して、新しい価値を提供していきたい。アントレプレナーシップは個々の理念でもあるし、会社の成長を大きく左右するものだと思っています」
ひろの屋設立の背景には、代々の水産業を継いでいくという以上に、地域を起点に水産業界を変革していきたいというビジョンがありました。
創業からわずか10ヶ月で被災―「もうやめようと思った」
しかし、2010年5月の創業から1年も経たないうちに東日本大震災が洋野町を襲います。
「もうやめようと思いました。津波で町が破壊されていく姿を間近で見てしまったし、これからますます疲弊していくんだろうなと強く感じた。でも、ネガティブなときこそチャンスだとも思ったんです。ここはポジティブにいこう、みたいな」
ひろの屋の設備は防潮堤の内側で被害が少ない方ではあったものの、魚市場や漁港も被災しており、当時はまったく商売にならない状況でした。どうにか商材になりそうなものは唯一、「天然わかめ」のみ。首都圏の物産展で天然わかめを売るところから、事業を立て直そうと動き始めます。
「とは言えどうやって柱となる事業をつくっていったらいいのか、構想がしばらくできませんでした」
震災後の下苧坪さんを支えた支援プログラムの1つが、一般社団法人・東の食の会による「三陸フィッシャーマンズ・キャンプ」です。東北で次世代の水産業を担うリーダー育成を目指すこのプログラムを通じて、現在につながる事業構想が生まれます。
「いろんなところに顔を出して、みんなが奮闘している姿に励まされながら事業構想を練っていきました。頭を整理しながら、とにかくアクション、アクション。このときにできた仲間は今も心の支えになっています」
震災を経て、下苧坪さんの目指す「新しい水産」の形が徐々にクリアになっていきます。
新しい水産業で、地域の未来を支えたい
新しい水産業を創るために下苧坪さんが重要視しているのが、地域の水産資源の見直しと養殖です。
「農業は土地があってそこに作物があるのでまだわかりやすいんですけど、水産は区切られた土地が目に見える形であるわけじゃない。よくわからないっていう世界なんです。水産って。
いろんな既得権益が働いて新規参入のハードルが高いこともあって、人材は非常に不足している。しかも、天然のものを獲って水産資源がどんどん縮小していくっていう、悪いスパイラルに入ってしまっている。
だからこそこれからの水産は、地域の水産資源の価値を高めていくことと、自ら作ることと、この2つが両輪として必要になってくるだろうと思います。地域の水産業の未来をしっかり創っていくっていうのは、我々のミッションの1つになってきましたね。」
海外でも日本食の人気が高まっている今、データ上でも世界的に需要がありながら供給が足りておらず、洋野町が本州トップの水揚げ量を誇る水産物、それがキタムラサキウニでした。
「キタムラサキウニの水揚げが本州で1位だということも誰も知らないし、品質が非常にいいことも知られていない。これをしっかりブランド化して発信していけば海外市場も狙えるはずだと思いました」
洋野町には、岩が海面からむき出しに見えるほどの遠浅に人工的に溝をつけた「増殖溝」と呼ばれる独特の漁場があり、漁協で管理しています。この溝にウニのエサとなる天然の昆布やわかめが豊富にたまる仕組みとなっており、ここにある程度大きくなったウニを入れるとさらに身入りを良くすることができるのです。「もっとお客様の心に響く名前を!」ということで、下苧坪さんが「うに牧場」と命名しました。牧場というネーミングから養殖と思われがちですが、ここで獲れるウニは天然物に分類されます。
洋野町のウニを東京で名店として知られる寿司屋に売り込み、そこで提供されるという実績もできてきました。だからこそ、常に評価されるためには年間を通した安定的な供給が必要となってきます。そこで現在、産学連携で研究開発を進めているのがウニの養殖です。ある程度大きくなってはいるものの実が入っていないウニをかごに入れ、未利用の海藻を原料としたエサを与えて太らせるというもので、天然ウニの旬の時期以外にも出荷することを目指しています。
「養殖モノの品質は天然には劣りますが、ウニを通年提供し続ける会社ということで認知を上げていきたいですね。養殖ウニがあるからこそ、天然のウニのおいしさも光ります。
そして『論理的な水産』をしっかり作っていくためには、やっぱり漁業者に意識を変えてもらわないといけない。それには漁師や漁協の古い体制をただ壊すんじゃなく、新しい風を入れて、『ちゃんと未来を描いてこれからの水産を創っていきましょう』と皆が納得しながら、一緒に再生していくことが必要です。それが、地域の誇りを創ることや後継者不足を打破することにもつながっていくと思います」
転機となったのは、「外」に認めてもらうこと
しかし、当初から地元の生産者との関係づくりがスムーズにいっていたわけではありません。そんな中転機となったのは、2013年11月、下苧坪さんが発起人となって立ち上げた「北三陸 世界ブランドプロジェクト実行委員会」の活動でした。この構想も「三陸フィッシャーマンズ・キャンプ」があったからこそ生まれたもの。東日本大震災からの復興、更には「北三陸の食を日本、そして世界に届ける」ことを目指し、地元生産者や漁協とも協力しながらプレミアム海産物加工品の開発を行うこのプロジェクトは、2014年6月、「復興応援キリン絆プロジェクト」に採択され、2千万円の助成を獲得します。
続いて2016年には、三菱商事復興支援財団から出資を、株式会社北日本銀行から融資を受けることができました。これにより「北三陸ファクトリー」の水産加工場が稼働し始め、出荷量を増やしていく体制も整っていきます。
「地元に帰って来て一番影響が大きかったのがこういった大企業の支援です。支援の枠組みに漁協や地元の関係者を巻き込んだら、地域の人達が僕を見る目が一気に変わっていった。それまでは実質ヨソモノ扱いだったのが、なんか新しいことやろうとしてるんだなっていう風にシフトしていったんです。
自己資金があったとして、それを元手に一緒に何かやりましょうって呼びかけるのと、ブランド力もある大企業が第三者として支援してくれるのとでは、もう雲泥の差なんですよ。外の人が『いいですね!』って認めてくれるのと僕が言うのとでは、説得力がまるで違いますから。誰もが知っている大企業が、どうにか地域を変えていこうとバックアップしてくれているというのはすごく影響が大きい。地域の人が変わってくれた要因の1つだったと思います。
同じように、僕らは産学連携が結構得意なんですけど、本人が言っても通じないことが、大学っていう権威のある第三者から言ってもらうとうまくいったりする。第三者も絡めて地域全体の利益をどう見せていくかという視点は、地域内の理解者を増やしていく上でも重要だと思います」
下苧坪さんが大企業等とつながることができたのは、先述の「東の食の会」のイベントに度々顔を出していたことがきっかけでした。外部の団体に属すると、その団体とつながりのあるステークホルダーが集まる会合がいくつもあります。そこで自分のやりたいことを提案するのです。
「外とのつながりって待っててもやって来ないんだよね。自分から行かないと。情報を取りに行って、確実じゃないにしても行動して、つなげていく。そういう場に顔を出し続けるっていうのはすごく大事だと思います」
地域側の思いがあってこそ、外部の力も集まり、アクションが加速していくんですね。
地方からダイレクトに世界を目指す
ウニを扱うようになって急成長を遂げたひろの屋の事業ですが、実は被災後かなり早い段階から海外への販路開拓にも挑戦しています。
「震災の翌年に、曽祖父達と地元の生産者の集合写真を見つけたんですよ。干しアワビ加工場をやってて、生産量も三陸一だった。70年くらい前の写真なんですけど、当時すでに香港に干しアワビを直輸出してたんです。それを見つけたとき『これだな!』っていう風に思ったんですね。自分にも世界で通用するようなDNAが流れているならやってみようと。今ほど環境が整ってない時代からパイオニアとして地域を支えてきたんだから、この時代でできないわけがない。地方だから環境が悪いっていうのは言い訳にできないなって勝手に思ったんです(笑)この写真は会社の応接室に飾ったりして、いつも目につくところに置いてます」
下苧坪家の海外志向DNAはお父さんにも受け継がれていたようで、商社に勤めていた頃はイエメンでフカヒレを売買していたそうです。下苧坪さん自身も高校・大学でそれぞれ短期留学を経験し、特に大学3年生のときのシアトルへの留学は「世界で仕事ができる男になりたい」という想いを強める転機となりました。
「自分自身で日本中、世界中を飛び回る中で、これなら間違いないだろうと実感できたのがウニだったんですね。理論じゃなく、この目で見たマーケティングです。日本全国いろんな海産物が獲れるし、全部いいんです。どこもおいしいんです。でもその中で尖るためには、一旦東京に行くんじゃなくて最初っから世界を目指した方がいいんじゃないかと。国内で大手の水産業や卸売業の歯車になってしまうのではなく、僕らが加工したものは僕らが食べてもらう人に近いところへ売ろうって思ったんです」
生産者と消費者をなるべくダイレクトにつなぐというのも、下苧坪さんが目指す「新しい水産」の形です。地方から一気に世界へ進出するという傾向は、各地へ北三陸ブランドを売り込む経験の中で見えてきたものでした。実績を作る過程が、実はそのままマーケティングにもなっていたと振り返ります。
「とりあえずやってみようっていう感じです。調べて挑戦するサイクルが、ここ数年ものすごく早かった。ためらいはなかったですね。海外に行くぞ!っていう気負いはあんまりなくて、ちょっと言葉が違うけど、まあなんとかなるだろうっていう感覚(笑)
なんとかなるだろうっていう感覚は本当に大事だと思います。最初からネガティブになっちゃうと絶対行けないのが海外ですし、パワーも相当必要なので。そう思えたのは、『先祖がやってきたのになんで俺ができないんだ!』っていうような感覚とか、留学して『俺でもグローバルになれるぜ!』みたいな、なんの根拠もない変な自信があったからですね(笑)」
公的な支援等は当初利用せず、まずは人のつながりを頼りに台湾の富裕層向けに通販を開始。その後ハワイ、香港、ロサンゼルスにも北三陸食材の輸出を試みてきました。海外へ向けた挑戦は現在も続いており、構想レベルだったものが少しずつ形になりつつあります。
今の事業のさらに先へ。任せることで事業が加速する。
下苧坪さんが海外戦略の強化等に注力できるようになった背景には、人材面が強化されたことが大きいといいます。都市部の企業で働きながら地方企業の課題解決に参画できるプロジェクトを紹介する「YOSOMON!」等を通じて、取締役やブランド開発、商品開発等を担う優秀な人材が次々とひろの屋に参画し、事業を加速させています。
「僕は元々狩猟型なんですけど、マネジメントって狩猟とはかけ離れてますよね。今までは自分で無理にやったり、自分の考えを通したりで、従業員との感覚のズレを感じることもあったんですけど、最近やっとマネジメントのスタイルがつかめてきた気がします。ほどほどの放任主義というか(笑)
大きな方向性を共有したら、あとは任せる。海外でMBAを取得した仲間や、JALの再生を手掛けたメンバーもいますし、全員半端じゃなく優秀なんで、信じるっていうところに変わってきたんだと思います」
「働き方改革」の流れもあり、副業やリモートワーク、月に数日だけの勤務等、多様な働き方を認めることで、地方にいながら優秀な人材を呼び込むチャンスは今後ますます増えていきそうです。事業がある程度大きくなり、さらに先を目指す段階にあるローカル企業にとっても、非常に参考になる事例ではないでしょうか。
「都市部とは真逆の実践型のビジネスモデルが地方だと思うんですよ。都市部だったらいいか悪いかを区別してから挑戦するのかもしれないけど、僕は考えてる暇がないです(笑)人もいない。お金もない。モノも豊富じゃない。だからやるしかないっていう。そんな実践型のビジネスモデルをどう地方で構築していくかが、僕らの世代に一番求められてくることじゃないかなって勝手に決めて、とりあえず走ってる感じです(笑)」
常に心にアントレプレナーシップを持ち続けてきた下苧坪さん。ウニ養殖の事業化や、北三陸ブランド商品と海外で出会える日も、そう遠い未来ではないように思えます。
この特集の他の記事はこちら
>> ローカルキャリアの始め方。地域で起業した経緯と始め方をクローズアップ!
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