前編でお届けしたのは、「創客創人」をコンセプトに掲げ、地域おこし協力隊の制度を活用した独自のキャリア支援プログラムを実施する宮崎県日南市と、その驚くべき復活劇から「奇跡の商店街」と呼ばれる油津商店街で、プログラムを通しまちづくり企業の右腕に挑戦する株式会社油津応援団・杉本恭佑さんのストーリー。
後編では、舞台を飫肥(おび)の城下町に移し、同じくキャリア支援プログラムを通してPAAK DESIGN(パーク・デザイン)株式会社の右腕として活動する、大迫佑貴さんのストーリーをお届けする。
>>前編はこちら:「20代の移住者が挑戦する「このまちで自分自身の人生を豊かにする」ということ〜宮崎県日南市の移住者キャリア拝見【油津商店街編】」
土地の資源を活用した循環型の仕組みづくりを推進するPAAK DESIGN
宮崎空港から高速で1時間、日南市の中心に位置する飫肥は、明治初期までの280年間 飫肥藩・伊東氏の城下町として栄え、今なお江戸時代の武家屋敷や商人町が残る美しい街並みを有する日南観光の名所だ。
そんな飫肥という地域にオフィスを構えるパーク・デザインは、設計デザインのノウハウを活かしながら土地の資源を活用し、 1)空家事業(リノベーション) 2)古物事業(古建材のリサイクル) 3)サブリース事業 4)地域ものづくり事業 に取り組み、循環型の仕組みづくりを推進している。
代表の鬼束準三さんは、前編で紹介した油津応援団の出身だ。東京のアトリエ系設計事務所に4年間勤め、商業ビルや住宅の建築設計監理、物販店・美容室等の内装設計監理や、空間インスタレーション、家具デザインまで携わってきた。そんな鬼束さんが故郷である日南市へのUターンを決心したのは、油津応援団・木藤亮太さん(詳細は前編へ)との出会いがきっかけだったと言う。
独立し東京に事務所を構えていた鬼束さんだったが、地元・日南市のことがふと頭によぎり故郷での人脈づくりを始めた際につながったのが、当時赴任して間もなかった木藤さんだった。彼の話を聞く中、よそ者として故郷・日南市のために頑張る姿に感銘を受け、出身者である自分こそ何か貢献しなくてはと一念発起。油津商店街への入社を決め、東京の事務所や家を引き払い故郷に戻ると、まちづくり事業に3年間傾倒した。
その後、2017年にパーク・デザインを設立し、再び独立。油津ではなく飫肥にオフィスを構えたのは、今も日南市で暮らす父親がカフェを営みたいと2階建ての物件を飫肥で借りることになったからだと言う。1階を父親が経営するカフェスペース、2階を自分のオフィスにし、新たなスタートを踏み出した。
休学してたどり着いた油津商店街で、ロールモデルとなる師匠と出会う
今回お話を伺った右腕の大迫さんは、2018年3月に福岡の大学院を卒業したての新社会人だ。卒業後はそのまま祖父母の家のある日南市に孫ターンし、パーク・デザインに就職した。そんな大迫さんと鬼束さんの出会いは、油津商店街でのことだった。
「大学時代、同じく建築を専攻していた1つ上の先輩が学部を卒業して入社した会社を1週間も経たないうちに辞めて、独立したんです。その先輩の事務所に遊びに行く機会があり、その仕事を間近で見て苦労を知ったと同時にすごいスピードで成長していく姿に感化され、僕もまず大学院を休学して社会で自分の力を試してみたい、そして手応えを感じることができたなら、早く独立したいと感じるようになりました」
「学生っぽい考え方ですけれど」と笑って付け足しながら、けれど所属していた研究室には学生ながら起業している人もいて、独立を促す気風だったのだと言う。その後、本当に休学を決めた大迫さんは、まずは人脈のある地元に戻ろうと考え、その前に長い間顔を出せていなかった日南市の祖父母の家を訪ねた。そこで偶然油津商店街の噂を聞きつけ、惹き寄せられるように商店街を訪ねると、そこには空き店舗をリノベーションしたゲストハウス「fan! -ABURATSU- Sports Bar & HOSTEL」を生み出そうというプロジェクトのメンバーたちがおり、ゲストハウスを設計する人物として現在の師匠である鬼束さんがいた。
油津商店街は広島東洋カープが春季キャンプを張る球場にほど近く、例年シーズンには多くのファンが訪れる。一方で十分な宿泊施設が近隣に整備されていない状況に名古屋大生が空き店舗を活用したゲストハウスプランを考案、日南市の職員や地元住民の後押しを受け、クラウドファンディングを達成し2017年に無事に開業した。オープニングスタッフの顔ぶれの中には、大迫さんも並んでいた。
「休学期間を利用してゲストハウスのオープンまで手伝わせてもらえることになり、そのままオープニングスタッフとして、清掃からバーテンまでこなして働いていました。その中で鬼束さんと親しくなり、東京で独立経験もありながら故郷の日南市で事務所を構えるようになったという鬼束さんの経歴に自分が思い描いていた道との近さを感じ、もしよかったら来年から働かせてもらえないかとお願いしたんです」
大迫さんの申し出に、スタッフの必要性を感じ始めていた鬼束さんも快諾。その際、採用を後押ししたのは前編冒頭で紹介した日南市の1年間のキャリア支援プログラムの存在だったと言う。そうして大迫さんは復学し、在学中の2017年秋の少しの手伝いを経て2018年春の卒業とともにパーク・デザインに就職した。
自分が直接的に関わったことが、どれだけの人を喜ばせられるか
「何より独立したてなのが魅力だと感じた」と語る大迫さん。実は、大阪の著名な事務所への内定も取り、パーク・デザインに就職するか大手事務所に就職するのかの二択だったのだと言う。
「自分たちが携わったものがまちへどれほど影響するのかが決め手でした。責任の重さという意味でも、喜びが大きいという意味でも。まちづくりのために働きたいというよりは、自分が直接的に関わったことがどれだけの人を喜ばせることができるかという判断軸でした。そうしたとき、パーク・デザインは鬼束さん自身が地域への影響を考えた仕事をされていますし、地方という狭さから周囲の反応がより伝わってくる気がしたんです。
またいずれ地元で独立したいと思っていたので、その下積みをどちらでやるかと考えたとき、有名事務所ではスキルは得られるかもしれませんが、クライアントやまちの人たちとの関係性構築を考えると宮崎で数年間を費やした方が絶対にいいだろうと考えました」
大手事務所の中で一社員でいるよりも、小さな事務所の欠かせない一員として業務に携わることで、将来独立するために設計だけでなく事務所運営や関係性構築を含めた実際の生きたスキルを学べると考えた大迫さん。その意志は確かに実現し、2019年の春に完成した飫肥のゲストハウスでは初めて現場担当を経験した。
「それまでは各々の案件の一部分の担当だったのですが、初めて自分主導で現場を進めました。分からないことだらけで、逃げたくなるような毎日でしたけど、ようやく次の段階に行かなかればいけない場所まできました」
逃げたくなるような毎日だったと語るその声は、けれど前向きな響きに溢れている。
建築事務所は一般的にも夜遅くまで仕事が続きやすく、現場があれば朝も早い。しかしながら都会と違い事務所の近くに住居を構えやすいこと、日々囲まれている環境の自然の多さ、師匠の鬼束さんが生み出す分からないことを尋ねやすい雰囲気と良好なチームワークで、「仕事内容としてはそれなりに大変なはずなのに、けっこう楽しめている自分がいる」と大迫さんは語る。
確かに、彼と実際に対面し話を伺うまでは、新卒のような立場で右腕となることへの気持ちの壁はあったのだろうかと尋ねるつもりだったが、どうやら杞憂だったようだとその姿からはっきりと伝わってくるものがある。
「建築という分野にはもともと師弟関係が存在するので、新卒だからといってそこまで気負うものはありませんでしたし、あとは右腕であることはより師匠から多くを学べることを意味すると思っていたので、自分にとっては望んでいた環境です。そもそも、覚悟を持って学びを吸収したいと思っている人以外は右腕になりたがらないと思いますよ」
そう頼もしく語ってくれた大迫さんからは不思議なほど気負いは感じられず、ただ自分の未来への希望が感じられた。
ドラクエじゃないけれど、勇者だけではクエストは進まない
取材の途中から事務所にやってきた、代表の鬼束さん。大迫さんがパーク・デザインで働きたいと申し出たときに何が決め手になって受け入れを決めたのかと問うと、このような答えが返ってきた。
「一緒に働くならば、日南にゆかりがある人がいいと前々から思っていたんです。その理由は2つあって、まずは地域の状況を自分ごととして、身体感覚で捉えられるかということ。パーク・デザインでは地域の背景を考えたうえで仕事をすることが多いので、そのミスマッチは避けたいなと思っていました。
次は、続けられるかということ。下手をしたら、その地域にいる期間を半年〜1年単位で考えている移住者は多いです。それは個人の判断でもありますが、ただそこに居てくれるだけで力になることも多いので、祖父母の家が日南市にあるというのは続けやすい状況だなと思い、彼の受け入れを決めました」
「ただそこに居てくれるだけで力になる」というのは、ドラクエではないけれど勇者一人ではなかなか進まないクエストも、役割の違う数人がパーティーを組み取り組めば物事は進むという感覚を持っているからなのだそうだ。
「まったく違う役割の人たちがいつでもまちに居られるようにしたいので、自分たちができることとしてこの事務所のスペースを知り合いたちにはWi-Fiを利用できる作業場として開放していて、将来的にはもっと広く移住者や学生たちに開けた場所にしていきたいと考えています」
ちなみに大迫さんが独立を希望していること自体は最初から知っていたようで、「自分もそうでしたから」と鬼束さんは笑う。
「残ってもらえればそれなりの役割もあるだろうし、そのときの状況次第かと思いますが、基本的に応援していますよ。3年くらいが節目かなとは思っているので、そのとき話せたらと思っています」
日南市の「第2のステージ」にあるのは、大変だけれど楽しめる心地よさ
パーク・デザインが手がける案件は、まちの人の流れを変える可能性を秘めている。まちづくり企業という意識はあるのかと尋ねると、「結果地域のためになったという在り方を求めていて、積極的にまちづくりであるということは語りたくはない」と言う。
「まずはクライアントの求めることや自分のやりたいことに取り組んだ上で、少しだけでも地域に目を向けたら絶対にまちに影響があると思うんです。特に頑張ろうと思っている若手にとっては、まずは本人がやりたいことをやった方が力を発揮できると思っていて。そうして、地域でやりたいことをそれぞれに頑張る人たちが飲み屋で偶然会って話したりして、やりたい方向がたまたま一致したら何か新しいコラボレーションが生まれるくらいがちょうどいい」
そうした鬼束さんの在り方は、きっと大迫さんが語ってくれた「大変だけれど楽しめる心地の良さ」に繋がっているのだろう。それは油津商店街で出会ってきた黒田さんと杉本さんの関係性にも通じるところがある。
第2のステージが始まった日南市。新たなパーティーメンバーとして自らの挑戦に取り組みたいならば、ぜひ一度彼らのもとを訪ねてみてほしい。
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NPOのプロフェッショナルを目指して。桜の花で震災の記録を後世に伝える桜ライン311の現場に密着
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