陸前高田の復興を目指す、地域限定生産のお米「たかたのゆめ」をはじめ、六次産業化製品を次々と世に送り出している有限会社ビッグアップルの関欣哉(せき・きんや)さん(53)。 関さんは、東京・お台場の大江戸温泉を成功に導いた凄腕プロデューサーとしても知られています。
もともと健康ランドとして設計されていた温泉施設を、テーマパーク的要素を取り入れて再設計。「大江戸温泉」として世に送り出し、若者や外国人を惹きつける新しい温泉施設のあり方を提示しました。 今回は、関さんに「たかたのゆめ」のプロデュースの舞台裏をうかがいました。その中から、六次産業*を成功させるポイントをお送りします。
*六次産業化:農業や漁業など一次産業が、加工(二次)・販売(三次)に踏み込むこと。1×2×3で、六次産業。例えば、りんこ農家がりんごスイーツを作って販売する、りんご狩り農園を開くなど。
写真:関さん(左)と、料理人・太田忠道さん
「大江戸温泉」最初の仕事は、プロジェクトのやり直し
石川:まずおうかがいしたいのですが、大江戸温泉の立ち上げにおいて、どんなお仕事をされていたんですか?
関:私が大江戸温泉の立ち上げに参画したときには、もう設計が終わっていて、建設にとりかかるため確認申請を行っている段階でした。その設計というのは、よくある「健康ランド」みたいなものだったんですね。健康ランドって分かりますか?
石川:立派なスーパー銭湯みたいなイメージでしょうか。
関:そうですね。それが、あまりおもしろくなかったんですよ。だから、私の最初の仕事は、プロジェクトをストップすることでした。その頃、すでに設計と申請に億単位をかけていましたが、また設計からやり直すことを決めました。それで役員会に提案し、当初の予算の範囲内、勧業時期は絶対に延期しないとう条件で了解を得ました。江戸開府400周年(2003年)のオープンを目指していたので、完成延期はできなかったんです。限られた時間内で海外調達部分を増やしてコスト調整を行いながら、半年間は休みなしでふんばりました。大変でしたが、面白かったですね。
石川:想像がつきませんが、とても大変そうです。
関:それでも、大江戸温泉を成功させるには、絶対に計画を作り直す必要がありました。その時は、「出来上がってしまえば後戻りができないので、今しかない」と思って。
石川:どうして「健康ランド」から、あのようなコンセプトに?
関:お台場は、非日常の場所です。一方で「お風呂」は、日常的なもの。わざわざただのお風呂にはいるためにお台場に来る人がそんなにいるとは思えませんでした。そこで、もっと若い人や外国人観光客にも、江戸時代を体験してほしいよね、という話になったのです。
そこから、浴衣というコスチュームに着替えて、広小路にお店が広がる異空間に入っていくと、そこには町娘や忍者、遊び人の若旦那までいて自分自身も登場人物になれるという、今の大江戸温泉のコンセプトが生まれました。お風呂だけじゃなくて、雰囲気を楽しんで、写真を撮ったり。これが外国人観光客の方々にとても評価されて、今に至っています。
大切なのは、「今までにないものをつくる」ということ
石川:その際に重要だったのは、訴求力のある斬新なコンセプトをつくって、潜在的な利用者に情報を届け、新しいマーケットをつくる、ということだったのでしょうか。
関:それもありますが、大切にしていたのは、「今までにないものをつくる」ということですね。過去に誰かがうまくやったことをそのまま真似てしまうと、往々にして失敗します。僕が子どもだった頃はボーリングが流行った時代で、日本全国に次々とボーリング場ができたのですが、すぐに価格競争になって、どんどん潰れていきました。
みんながやっていることに乗り出すと、とがった価値を出すことが難しいから、すぐに価格競争になってしまいます。でも、これまで誰もやったことのない事業には、競争相手がいないのです。大江戸温泉の例に戻ると、日帰りの入浴施設に海外からの観光客が来るなんて、それまで誰も思っていなかった。
石川:「テーマパーク×お風呂」というコンセプトが、大江戸温泉以前にはなかったのですね。続いて、東北でのお仕事についてかがいたいと思います。どうして、被災地での商品開発に関わることになったのですか?
関:私は中学校・高校を岩手県の大船渡市で過ごしたので、被災地に同級生や親戚がいました。津波の映像を見て、とても心配になったのをよく覚えています。浦安の自宅付近も地盤沈下などで大変でしたが、それが一段落して落ち着いた1ヶ月後に被災地に行きました。
被災地を初めて訪問した時は、まだガレキが散乱していて、まちの中心部には足を踏み入れることができず、せめて自分でできることをと思って仮設のトイレを手配し設置したりしました。そうしているうちに、陸前高田市の戸羽市長と出会い、「これからの復興において重要なのは、産業の振興」というお話をうかがいました。
地域に仕事がなくなれば、人々は避難したまま帰って来ることができず、まちが消滅してしまう。市長は強い危機感をもっておられました。 特に懸念されていたのが、農業の復興です。給排水設備は壊れ、土壌には塩がはいり、農機具は流されてしまっていました。また、陸前高田は平地が少なく小規模農家が多いため生産効率が低く、担い手の平均年齢が高かったのです。元通り復旧するだけでは、将来的にはうまくいかなくなることが想定されました。
そんなときに、JT(日本たばこ産業株式会社)で働く知人に相談したら、「JTはアグリ事業から撤退しているけれど、農産物の新しい品種などの資産が残っている」ということを教えてくれました。これをうまく活用すれば、新しい農作物が陸前高田でできるのではないかと思ったのです。
JTとしては、何年もかけて投資してつくった品種ですし、ボランティアや寄付でなく、品種提供をとおして復興支援をするというのは前例がないことですから、本当にうまくいくのか不安があったでしょう。それに、地元の農家サイドにも、「それ本当においしいの?ちゃんと収穫できるの?」という声がありました。
石川:なるほど、そうでしょうね。
関:ですから小さくはじめようと思い、最初はわずかな種をJTさんの温室で育て、2.5キロの種籾(たねもみ:種子としてまくための脱穀前のお米)をつくりました。それを陸前高田市に持って行ったら、「誰が買うかわからないから、農家も取り組みにくい」と言われたのです。各都道府県は「推奨米」というものを設定していて、農家はそれを栽培し、農協が買い取るという仕組みがありますから、当然の反応だったのでしょう。
でも、やめるわけにはいかないので、我々で全部買うことにしました。2.5キロの種籾を10アールの田んぼにまいて、初年度にできたのが、1,300キロのお米。それを買い取って、市の関係者に食べてもらったら、「おいしいですね」と言ってもらえたんです。 その結果、JTさんが品種を陸前高田に寄贈してくださり、地域限定のお米として育てていくことになりました。
すぐに一般公募で「たかたのゆめ」という名称をつけ、ロゴマークをデザインし、商標登録と産地銘柄登録をしました。最初は800キロをサンプルとして色んなところに配って食べてもらって、残りをまた種籾にして。翌年2013年は30トン、2014年は260トンまで生産量が増えました。
研究所で種籾の採取を行っている様子
石川:すごい勢いで増えていますね。軽々と語られますが、JTさんと陸前高田の関係者を巻き込むことは大変だったのではないかと想像します。そのあたりはどう進められたのでしょう?
関:確かに、当初関係者は「うまくいくのだろうか」と不安に思っていたかもしれません。私がラッキーだったのは、企画段階から市長が「これでいこう」ということを決断し、サポートしてくれたということです。他でも作っているようなもので農業を前のように復旧させるのではなく、農家の所得が増えるような新しいものをつくろうという強い思いがありました。 JTさんにとっても、結果として興味深い支援になったと思います。それまでも熱心に、お金や人による支援に取り組んでおられたのですが、そういった支援は一時的なものですから、いずれは忘れ去られてしまいます。
さらに、「市民の財産として将来にわたって残るような支援をしていただけないか」とお伝えしたところ、役員の方々にも賛同していただき、支援が決まりました。
「たかたのゆめ」原種の贈呈式
石川:ものすごくお金のかかった資産だったでしょうが、気前よく支援してくださったんですね。ところで、どうしてお米だったのでしょう?他にも変わった野菜とか、新品種はあったかと思うのですが。
関:他にもいくつか候補はありましたが、やはり陸前高田の土地で、この気候で作るからおいしい、ということが大切だと思ったのです。単にもの珍しいというだけでは、商品としても農業としてもうまくいきませんから。陸前高田という土地に最もあっていたのが、当時の開発名「イワタ13号」というお米だったんです。
たかたのゆめWEBサイトより
石川:ただ物珍しいのではなく、本当にいいものをつくるべきだと。ここまでのチーム作り・商品づくりも大変でしょうが、いざお米ができても、そこから販売を成功させるまでには、もうひとつ高いハードルがあると思います。その点はどうクリアされたのですか?
関:インターネットによる直接販売や、東京駅での駅弁の販売、陸前高田内のお店での提供など様々な流通経路を開拓しています。ですが、まだまだ取り組むべき課題は多いですね。お米の流通の仕組みって、わからないことが多いんです。最も重要な農産物であるために支援や備蓄の制度が絡み合って、流通と価格決定の仕組みがとても複雑なのです。 石川:ちなみに、「たかたのゆめ」の特徴はどんなところにあるのでしょう。
関:今度、一般社団法人おにぎり協会から認定を受けるのですが、「冷めてもおいしい」というのが特徴のひとつです。おにぎりにぴったりだそうです。その意味では、駅弁とも相性がよいですね。東京駅に毎朝新幹線で運んでいるので、11時40分くらいになると駅構内の「祭」で買えますよ。
JR東京駅改札内の駅弁屋「祭」にて販売中。写真は販売元の松月堂・斎藤社長
石川:大江戸温泉同様、おもしろい切り口からお米をみておられますね。
関:そうですね。最近では、神戸から料理の鉄人を招いて東京で食味会を開催したり、陸前高田市では飲食店向けに「たかたのゆめ」に合ったレシピの講習会を行っています。陸前高田に来て、「たかたのゆめ」を食べよう!と思っていただいたとしても、それがごく普通のカツ丼とかだったら、あまりおもしろくないですよね。だから、「料理の鉄人」大田忠道さんとレシピを開発して、陸前高田でそれを食べられるようにしているんです。
「たかたのゆめ」東京における試食会の様子
石川:それは旅行者にとっても、ありがたい取り組みですね。地方に行くと、意外と食べるものに困ることがありますし。
関:何より、「農家の方々に自信をもってもらいたい」と思っています。テレビで紹介されたり、色んな人から自分が作ったものが評価されたりするのって嬉しいし、自信につながるじゃないですか。これまで「たかたのゆめ」は生産量が少なく、「地元では買えないお米」でした。でも、去年から地元でも買えるし、「たかたのゆめ」を提供するお店がいくつか現れて、本当に地元のお米になりつつあるんです。
石川:そうすると、農家さんも作りがいがありますね。
関:ありがたいことに、「うちでも作ってみたい」という農家さんも増えつつあります。「たかたのゆめ」は、作り手の幸せ、加工や販売に関わる人の幸せ、食べる人の幸せを大事にするお米であってほしいと思います。
石川:関わる人がみな嬉しい、ということを大切にされているのですね。
関:そうですね。他にも、障がい者福祉施設での米粉スイーツの製造をはじめて、彼らの収入向上にも取り組んでいます。あとは、地元の学校給食への導入とか、陸前高田の海産物をつかったパエリアも企画中です。地域限定の「たかたのゆめ」の生産量は限られますから、どこでどんなふうに食べてもらうと最も良いのか、ということは常々考えていますね。
石川:「たかたのゆめ」にかぎらず、色んな取り組みを進められていると思うのですが、関さんの東北における活動全般について、今後の展望を聞かせていただけますか。
関:陸前高田や大船渡で仕事をしていると、「若い人が少ないなぁ」と思います。その原因はやっぱり仕事が少ないから。だから若い人は外に出て行ってしまうし、「Uターンして故郷で働きたい」と思っても、戻ってくることは難しくなっています。 ですから将来的には、もっと地域の雇用を増やすために、他の地域産品のプロデュースや、植物工場のような先進的な取り組みを進めていきたいと思っています。やっぱり、「ちゃんと稼げる」とか、「かっこいい」って人を引きつける上で大切ですから。
石川:新しい取り組みで地域の一次産業を復活させるとともに、新たな雇用を生み出す事業にも、順次とりかかっていくと。最後にお聞きしたいと思いますが、こういった取組をはじめたことで、関さんご自身になにか変化ってありましたか?
関:性格が優しくなったかな。笑
石川:それはまたどうして?
関:自分だけあせってもしょうがないからですかね。お米って年に一回しかとれないんです。じたばたしても、どうしようもない。そういう事業に取り組むことで、関わる人や地域の人達のことを以前よりもゆっくり考えられるようになりました。やはり、陸前高田で多くの時間を過ごしているから、感じられるようになったのだろうと思います。
石川:興味深いお話、ありがとうございました。「たかたのゆめ」をはじめ、関さんが今後どのように地域産品をプロデュースされるのか、楽しみにしています。
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