「東日本大震災の記憶を風化させてはいけない」――。
毎年3月に入ると、こうしたフレーズが全国で繰り返される。「忘れるな」というのは簡単だが、「忘れたい」人がいるのも事実だ。本当に忘れてはならないのは何か。そのために誰が何をしなければならないか。それを明らかにし、実行に移していくのは、一見単純に見えて誠に難しいタスクである。
それに真正面から向き合ってきたのが、公益社団法人みらいサポート石巻だ。市町村単位の犠牲者数で最大の被災地となった石巻市において、語り部のアレンジや防災まちあるきといった震災学習プログラムを提供するほか、2か所の伝承スペースも運営。地道かつ精力的な伝承活動を続けている。
ハード面の復興事業が進み、被災地の姿も刻々と変わっていくいま、その活動は節目を迎えている。次のステージへ踏み出すため、伝承団体の広域連携組織である「3.11メモリアルネットワーク」も立ち上がった。2020年には石巻市南浜地区に国が関わる復興祈念公園も完成予定だ。このタイミングでみらいサポート石巻は、市外からの新しい人材を求めているという。設立当初から団体のキーマンとして活躍してきた専務理事、中川政治さんの話を聞いた。
>公益社団法人みらいサポート石巻では、「地域おこし協力隊x右腕プログラム」で人材を募集しています
被災者の心情と伝える使命の間で
中川さんは京都の人である。石巻に来て7年。語り口は関西のテンポとイントネーションを残し、団体の使命と今後の構想をにこやかに語る様は一見、「楽しそう」だ。いや実際、やりがいがあるという意味で楽しい仕事なのであろう。でも、中川さんを突き動かしているものは、もっともっと深いところにある。
中川さんの取材は、石巻駅から南へ約3キロ、南浜地区にある「南浜つなぐ館」でお願いした。
このあたりの海岸線は三陸のように入り組んではいないが、それでも津波の高さは6.9メートルに達した。震災直後、ガレキに覆われたこの場所に住民有志が建てた「がんばろう!石巻」の看板は、市民の心の拠り所となり、いまではその二代目が「南浜つなぐ館」のとなりに建っている。
一帯は国営の追悼・祈念施設を含む復興祈念公園の造成が始まっていた。隣接する門脇地区にある門脇小学校も、一部が震災遺構として保存されることが決まっているという。「南浜つなぐ館」の北側には防潮を兼ねた高盛土道路が建設中で、その向こうには真新しい復興公営住宅団地が立ち並ぶ。その脇には新築の民家もぽつぽつと見かけられた。
こぢんまりした「南浜つなぐ館」の中に入ると、まず目についたのが震災前のこの地区を復元したジオラマだ。制作した石巻専修大学から展示協力を受けているそうだ。海のそばギリギリまで家が立ち並んでいたことがわかる。かなり精巧なつくりで外来者が見ていても飽きないが、おそらくこのジオラマの前でいちばん長い時間を過ごすのは地元の住民だろう。
「この施設には、外からの来訪者だけでなく地元の人こそ来てほしいんです。昔の写真を見たり、思い出を話し合ったりしてほしい」
だから中川さんは住民の声に耳を傾け、展示の内容にも人一倍気を配る。
奥のシアタールームでビデオを上映してもらった。中川さん自らドローンを飛ばしたりして撮影・編集した2~3分のビデオが、4本ほど用意されていた。もちろんその中には、ガレキの山や悲惨な姿になった小学校舎など震災直後の写真も映し出されたが、固有名詞のキャプションは英語だった。
「ガレキの写真は、最初は使うのもためらわれました。地元の人が来て『ああ、俺みてらんねえ』といって帰っていくんです。そういう人は今でもいますが、徐々に様子を見ながらコンテンツに加えていっています。でもまだキャプションは(みんなが読めてしまう)日本語では付けられない」
他の展示も創意工夫にあふれている。震災直後の様子が3Dで見られるVRグラスも、実は中川さんの手作りだ。
「こういう施設は、工夫し続けないとあっという間に人は来なくなりますからね。地道に資料を集め、映像もコツコツ撮りためて、定期的に更新しています。『南浜つなぐ館』は今年でオープン3年になりますが、おかげさまで年間15,000人ほどの来館者を維持しています」
こうして収集したコンテンツは、3年後に復興祈念公園と追悼施設が完成したときこそ生かしたい、生かさなければならない、というのが中川さんの考えだ。
「きれいな追悼施設だけ作っても、ここで何があったか知らないのではまったく意味がない」
ただ多くの人が亡くなった、というだけではない。逃げれば助かった命もたくさんあった。その教訓をここで伝えずしてどこで伝えるのか――。中川さんの強い志の源を、もう少し聞いてみよう。
これほどの人は死なずに済んだはず
繰り返すが、中川さんは京都の人だ。震災前、石巻には何の縁もなかった。したがって、ここで大切な家族や友人を亡くしたという経験をしたわけではない。
大学院で人間環境学を修めた中川さんだが、「研究職は向いていない」と、卒業後はそのまま地元京都で就職した。が、日本的な会社組織に違和感をもち、3年後とある国際協力NGOへ転職。イラク難民支援でヨルダンに2年駐在、2010年のハイチ大地震の緊急支援でも数か月の現地派遣を経験した。
「そのときの経験はいま大いに役立っています。ヨルダンでは難民の心理社会的ケアをしていました。演劇や絵画などを通じて心中にあるものを表現してもらい、それがいわゆる心の復興に効果があるとされます。でも2年任期の最後は、ヨルダン人自身で難民を支えられる体制を作って帰って来いと言われました。だけど、事務所のヨルダン人スタッフは日本のお金で雇われているんですよ。そんなに短期間で自立しろといっても無理な話だった。ハイチ地震のときも被災者の自立支援が課題でした。いま東北の被災地で起きていることに通じます」
そして2011年3月11日、中川さんは青年海外協力隊の仕事でフィジーにいた。
「ニュースを聞いて、自分にできることが絶対あるはずだと思いました。ハイチ地震では空港閉鎖などで物理的に行動が制限されましたが、今回はやろうと思えばできることは山ほどある。手続きの問題で帰国までに2週間かかったのですが、まず京都に帰って東北支援に関われる方法を探しました。個人でも(緊急支援には)こういうことが求められる、というのは分かってましたからね。京都でJC(青年会議所)が東北向け物資仕分けボランティアを募集していたのでお手伝いし、その物資を石巻JCに送っていると聞きました。現地でガソリンが不足しているとの情報を元に軽油の車を借りて、一人で運転して石巻での配布を手伝いに来ました。数日間は物資配布をやり、その後石巻専修大学で支援活動の事務局を手伝うことになりました」
その後ほどなく、「みらいサポート石巻」の前身となる「一般社団法人石巻災害復興支援協議会」に参画し、全国から石巻に駆けつけたNPO・NGO、ボランティアらの活動調整やサポートとともに、避難所の衛生改善、入浴支援などの緊急対応にあたった。やがて、災害救援から復興支援へとフェーズが変化するのに伴い、2012年11月に団体は「みらいサポート石巻」へと改称。「石巻のより良い未来に向けた取り組みを行う地域のリーダーや団体と共に石巻を支える活動に移行」(団体ホームページより)した。そして、2015年7月には公益社団法人となり、「震災支援の連携から 震災伝承の連携へ」と活動をシフトしている。
震災直後の緊急支援期から震災伝承を軸とする現在まで、一貫して被災者の間近で活動してきた中川さんは、ひとつの確信に至った。
「津波で家を流されたのは仕方なかったかもしれないが、人はこれほど死なないで済んだはず」
聞き取りをしていくと、ラジオで逃げろと言っていたのに家へ向かった、一度逃げたのに家が心配で戻ってきた、という話がたくさん出てきた。また、北上川を溯上した津波に飲み込まれた大川小学校のケースでも、事前の学びの必要性を痛感した。
「逃げれば助かったのに逃げなかった、という証言をきちんと集めて伝えていかなければ、次に南海トラフや首都圏直下地震が起きたとき、同じ過ちがまた繰り返されてしまう」
住民に重い口を開いてもらい、他所でも活用できる資料にまとめるのは大変な仕事だが、みらいサポートはそれに取り組んでいる。「やろうという人が他にいないから」だ。そのモチベーションを支えるのは何かと聞くと、中川さんは少し考えて、「喜怒哀楽から選ぶなら、『怒り』ですね」と答えた。
「世の中や行政に対してだけでなく、(助かったはずの命に対して)何もできなかった自分自身への怒りです。あのとき自分がもしここいたら、あの高さの波が来るなんてやっぱり想像できなかった。だから死んでいたかもしれない。家族も殺していたかもしれない。津波の怖さを知らないというのは、極端な表現が許されるならば、『愚かさ』だと思うんです。人の愚かさによって人が亡くなったし、だからこそ教訓から学ばなければならない、という意味では、ヒロシマに近いと思う。そんな言い方をする人は少ないですけどね」
「ハイチ地震のとき、現地の人に『これが日本だったら絶対大丈夫だよね、日本の建築基準ってすごいらしいね』と言われました。ヨルダンでもフィジーでも日本は安全ですごい国だ、と言われていた。でも実際は全然違うじゃないかと。建物の耐震はよかったかもしれないが、津波に関してはまじめな避難訓練を一度もしていなかったとか、避難マニュアルも作っていなかったとか、逃げる判断を誤ったとか、2万人近くの方々が犠牲になりましたが、私たちがもっと賢ければ、多くの人たちが救えたはずなんです」
「そこをちゃんと直視せず、過ちをなかったことにしようとしている風すらある。あのとき避難すれば助かったはずの命への反省は日本全体の学びにできたはずなのに、そんな機運はあっという間にかき消えてしまった。次の大災害で命を守るためには、犯人捜しではなく、自分も悪かったという人たちが語り始めるしかない。みんな無意識に避けてしまうそのことを、なんとか形にして次の行動につなげなければ」
中川さんの言葉を聞いていて、義憤の二文字を思い出した。
伝承継続のために収入の多角化を目指す
もちろん、語り部の人たちはたくさんいる。自らの辛い経験を「次世代に伝えていく覚悟」をもって語り続けてきた人たちだ。伝承プログラムを運営する民間団体も各地に立ち上がっている。みらいサポート石巻を含めて、そうした個人・団体のほとんどが自助努力で活動を続けてきた。国の復興・伝承関連予算は祈念公園などのハード面が優先され、民間の伝承活動のようなソフト面にはほとんど支援がなかったからだ。
ところが、自助努力の財源となる来訪者やプログラム参加者の数は、被災地が平常に戻るにつれ減ってきているのが現状だ。50年100年先まで伝承を続けるためには、個人や団体をつないで被災地全体でスクラムを組まなければ――。
そんな危機感を共有した関係者が集まり、2017年11月に誕生したのが、「3.11メモリアルネットワーク」という組織である。役員は互選。中川さんはその事務局長に就任した。このネットワークには宮城県内だけでなく岩手や福島などからも参画があり、今年3月1日現在で47の団体と220名の個人が会員登録しているという。
「その数は日々増えており、前例のない当事者主体の広域連携組織に成長しつつあります。資金や人材などが先細りしていく危機感のなか、『ネットワークができる必然を感じた』という声もいただいています」
まず取り組むべきは、伝承活動を支える経済基盤の確立だ。「3.11メモリアルネットワーク基金」を創設し、すでに企業などからも寄付が集まり始めているという。3月9日には第1回伝承シンポジウム「伝える力 地域を超えて、世代を超えて」も開催した。
「みらいサポート石巻」としてもこの基金による助成事業に申請することはできるが、まだ募集は緒に就いたばかりだ。いずれにせよ寄付にばかり頼るわけにはいかない。そこで中川さんが注力したいのは、物販やツアー造成による事業収入の増加である。ここに、いま募集している地域おこし協力隊員の力を借りたいのだという。
「伝承という枠の国の補助金はもともと少ないし、早晩ゼロになります。他に公のお金としては、祈念公園や震災遺構などの指定管理の委託収入がありますが、これもまだどうなるかわかりません。だから、他の事業で着実に収益を上げなければならない。物販は、たとえば『がんばろう!石巻クッキー』とか、キーホルダーでもストラップでも、この場所で販売する意味があり、来訪者が喜んで買ってもらえるものならなんでもいい。震災から7年たってようやく、ここでモノを売って、その収益を伝承の継続に役立てようという議論ができる雰囲気になってきました。(委託収入と違って)物販の収益は自由に使えますから、企画の自由度も増します」
昨年には第三種旅行業を取得し、伝承拠点をつなぐツアー造成も計画中だ。そして、現行の震災学習プログラムを観光コンテンツとして品質向上させ、価値を高めることで、将来的に国や市の恒常的な予算を獲得することも考えている。念頭にあるのは、広島の原爆ドームや神戸の「人と防災未来センター」だ。ツアーはそのための積み重ねでもある。
石巻市の地域おこし協力隊に応募できるのは、原則として市外の人である。しかも任期は最長3年という時限つきだ。「よそ者」が3年で何ができるのだろうか。
「よそ者だからこそ、外から人を呼んでくることの難しさを知っているはず。『売れる』ものを外の目線で開発してほしいのです。それに、これからの3年間はビッグチェンジの時期。祈念公園も追悼施設も震災遺構も完成する予定ですが、そういうものができたらお土産を売ったり、お茶を飲ませたり等のサービスが必ず必要になります。でも、ハードができた後にそういうソフトを考え始めても遅い。今から動き始めて、時が来たらそういう役割を担えるようになってほしいのです。そのためには、まず地域の皆さんの信頼を得ることが大切。地域と活動してきたみらいサポートの一員となってその信頼を築いてほしい」
無理だからやらないのと、無理でも挑戦するのは違う
戦争は人の愚かさだ。たしかにここがヒロシマのような、全国はもちろん海外からも人が訪れるような場所になれば、津波から逃げなかったという人の愚かさを伝承し、未来の命を救うことに幾ばくか寄与するかもしれない。
「広島の原爆ドームや資料館に行けば、戦争は怖い、原爆は怖いぞ、という空間がちゃんと作られています。同じようにここでは、津波は怖いぞ、死んでしまうんだぞ、ということをきちんと表現しないといけない。住民感情や世の中の雰囲気が、まだそれを許す雰囲気になっていないと感じますが、それでも同じような大規模災害はまた必ず起こる。此度の大震災への痛烈な反省と、そこからの学びなくしては、日本が前に進むことは難しい」
自省の念も込めて振り返る。思えば7年前の今ごろ、首都圏でも計画停電や一時的な物資の不足などを経験し、日本社会全体が大きな意識変革の機運を感じていたと思う。それが今はどうだろう。忘却とは人間の性であり、過去の愚かさに学ぶことなどしょせん無理なのではないか――。中川さんに問うてみた。
「無理だからやらないのと、無理でも挑戦するのは違います。たしかに原爆ドームがあっても原爆はなくなっていない。でも、ヒロシマのあのドーム、あの展示は『何か』を止めているはず。人類社会になんらかの影響を与えているはずなんです。愚かさはなくならないし、風化は止められないかもしれない。また同じ犠牲は出るかもしれない。でも、私たちがここでやろうとしていることは、『何か』を止める力はある」
「みんな、人生には時限があります。もしもガンで余命何ヶ月と言われたら、生き方変わるでしょう。今日と同じ明日は来ないかもしれないんですよ。だから、私は今やれることはやろうと思っているのです」
中川さんの「怒り」の意味を理解する人は、「命を守る」というこの仕事の意義を心から理解するだろう。そんな人が一日も早く「みらいサポート石巻」の門を叩いてほしい。
>公益社団法人みらいサポート石巻では、「地域おこし協力隊x右腕プログラム」で人材を募集しています。
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